冷ややかな首長が斬って捨てた鉄路「三木鉄道」

 2006(平成18)年1月、三木市長選挙における争点は『財政再建』。その中ではて三木鉄道の存続も話題に上り、三木鉄道廃止を公約とした候補が当選しました。その後、新市長下での市民アンケートで廃止賛成が過半を占めたこと結果も踏まえ、三木市はバス転換へ舵を切り、沿線の加古川市と広域自治体である兵庫県もその結果に対して止むなしとの立場を取ったことから鉄道としての命運は尽きました。

 標題から妙な議論を起しかねない表現としましたが、抑も、三木市民の移動の過半は神戸市方向であり、金物や農産物などを高砂港まで運ぶ目的で敷設された鉄道が旅客相手に生き残ること事態が不可能なことは特定地方交通線に指定された時点で明白だったと、いくら鉄道好きの私でも普通に判断できる立地条件でした。

 しかし鉄道信仰が根強く残っていた当時の皆さんが、第三セクター鉄道としての存続を選択し、赤字を生み続けたことは事実だと思います。ただ、詳しい議論を存じない者が云うのはおこがましい事を承知で申さば、赤字であることだけに焦点を当てるのでは無く、鉄道があることの反射的利益、沿線地価や周辺からの地域に対する評価への影響など、有形無形の利益に目を向けた議論があったのかなとの思いもあります。

 その後の代替バス路線の悲惨な状況等々、個人的には色んな想いが交錯しますが、三木線自体の向きが悪すぎた事の外、三セク化に伴いネットワークをぶち切って利用者に厄神乗換を強いた事、更には「一旦得た自家用車の利便性を手離せない住民」が廃止の最も大きな要因でしょう。これは鉄道・バス等の公共交通機関を取り巻く共通の事態で、三木鉄道ではこれが如実に現れただけのことです。

 わたくしは昭和57年3月の「青春18のびのび切符の旅」の初日の早朝に国鉄三木線に乗車しただけで一切訪問することはありませんでしたが、流石に自宅から至近の鉄道が無くなるのであればと“お葬式”を敢行したところです。それではお愉しみくださいませ。
(使用機種:CANON EOS20D 執筆 平成27年3月17日)

【 2007(平成19)年12月1日(土) 】

《 三木駅 》


昼下がり予想通り閑散としてました

駅構内に入ります/(右)ミキ300-104 (右)ミキ300-103

明るい塗装の車両が午後の光に映えます/ミキ300-103

貨物ホームと上屋は車庫へ変貌/ミキ300-103

駅構内の全景/(右)ミキ300-103 (右)ミキ300-104

車両のサイドビュー/ミキ300-104

記憶は無いですが恐らく国鉄時代のままでしょう

三木市内の観光案内も手持ち無沙汰・・・

元貨物ホームの先から再び構内全景/(右)ミキ300-103 (右)ミキ300-104

駅上屋には定期利用者の自転車が/ミキ300-103

《 高木駅 》


第三セクター化で復活した駅も閑散としてました

下り列車が接近してきました/ミキ300-105 131レ

駅へ到着です/ミキ300-105 131レ

乗降客もなく・・・/ミキ300-105 131レ

最後の600mを駆けていきました/ミキ300-105 131レ

改めてホーム全体を

《 別所駅 》


こぢんまりとした駅舎です

高木駅もそうですが、公衆電話利用者は居たのか・・・?

遠い昔は行き違い施設もあったでしょう

駅名標は国鉄時代のデザインでした

折り返しの列車がやってきます/ミキ300-105 132レ

厄神へ向けて出発です/ミキ300-105 132レ


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