城の見方ガイド(1) 城って何だ?
○何を以って城というのか
しろ【城】敵襲を防ぐための軍事施設。古代には朝鮮・蝦夷(えぞ)対策のために築かれ、中世には自然の要害を利用した山城が発達したが、このころのものは堀・土塁・柵(さく)などを巡らした簡単な施設であった。戦国時代以降、政治・経済の中心地として平野に臨む小高い丘や平地に築かれて城下町が形成され、施設も天守を中心とした堅固なものとなった。
<デジタル大辞泉より>
ということで、端的に言えば敵襲に対して防御するための軍事施設です。ただし平和な時代になると領地支配のシンボル的な要素、役所としての機能、君主の住居としての機能の方が強くなっていきます。他方、ヨーロッパの城の場合は中世の石造りの城が大砲の登場で簡単に破壊され、特に高い塔は格好の標的になるようになると、軍事機能に特化した要塞と、壮麗な君主の館としての城に2分化していきます。
また、日本では戦国時代の小田原城が近い存在ではありますが、中国やヨーロッパでは都市全体を城壁で囲んだ例が多くみられます。英語では都市を囲む城壁をcity wall と言ってcastleとは区別されますが、中国で城と言えば、この城壁都市の意味合いが強いのが特徴です。大規模なものだと万里の長城も「城」ですし、そこまで規模が大きくないにしても、大都市の場合、例えば北京の場合は、市街地を囲む北京城の中に、さらに皇帝が住む紫禁城があります。前者は外城、後者は内城と区別されます。
○日本の城の歴史
先ほどの定義に従うと、たとえ城という名称ではなくとも、佐賀県にある弥生時代の環濠集落跡である吉野ヶ里遺跡も立派な城であるといえます。ご覧のように、物見やぐらや二重の環濠など防御機能が充実しております。このため、2006(平成18)年に財団法人日本城郭協会が定めた「日本100名城」の1つに指定されています。
やはり富の分配を巡って他のムラとの戦争が勃発するようになって登場したわけで、このように弥生時代に登場した城としての機能は、飛鳥時代から奈良時代に古代山城(朝鮮式山城)の築城技術が伝えられたことにより、今度は山の上にも建設されるようになります。これは特に、663年の白村江の戦いの後で日本・百済の連合軍が、唐や新羅連合軍に敗北し、海外からの侵攻に備えて、天智天皇の命で西日本を中心に造られるようになったもの。
大宰府を守るために建造された、福岡県の大野城が代表例です。ちなみに平野部には、長さ約1.2kmの水城(みずき)という直線状の塀と堀も築造され、大宰府の防御を強化しています。
古代山城は、狭義には「日本書紀」「続日本紀」に記載があるものを指しますが、同時期には上写真の鬼ノ城(岡山県)のように、何の記載も無い城も日本各地に存在しています。
一方で東日本の場合、蝦夷(えみし)との戦争が続いた東北地方で、7世紀から9世紀にかけて多賀城(宮城県)や出羽柵、秋田城などの軍事拠点と行政拠点を兼ねた城柵が築かれました。特に多賀城は規模が大きく、東北における朝廷の支配拠点としての性格を持っています。
これらは朝廷の力が弱まると衰退し、中世になって武士の時代になると、平地に堀をめぐらせた領主の館や、戦闘時に立てこもる山城が造られるようになっていきます。さらに、領主の館を中心とした城下町も形成されていきます。
そして戦国時代になると、丘陵に築いた平山城(ひらやまじろ)や、平地そのものに築いた平城(ひらじろ)が次第に主流となり、領国経営としての使い勝手も追求されていきます。さらに、織田信長による安土城、豊臣秀吉の大坂城に代表されるように、戦国時代の末期になると戦闘機能のほかに、領国支配のシンボルとして天守閣が造られます。
これを契機に安土桃山時代から江戸時代にかけての城は、領国支配のシンボルとして美しさも追求され、現在でも見られるものや、復元されたものが多いため、我々が一般的に持つ城のイメージとなっています。
なお、日本全国いたるところに大小様々な城があり、丘や山があれば、そこは城か古墳か・・・の状態であったものも、江戸幕府によって一国一城令が発令されたため、基本的には一大名家につき一城を残し多くの城は破却されました。これによって中世以来の山城の大半は姿を消しています。
一方、一般的に3万石以下の大名や、上写真の高山陣屋のように、幕府直轄領(天領)の拠点は陣屋と呼ばれる施設を造って、城の代用としたほか、幕末には五稜郭のような西洋式の要塞や、江戸を守るための台場も造られています。