山形城〜山形県山形市〜


○解説

 別名、霞ヶ城ともいう山形城の築城は、南北朝時代の1357年、足利家一族の斯波兼頼によると云われています。その後、山形城を領有した子孫は最上家を名乗り、その中でも戦国大名として伊達政宗などと抗争した最上義光は、東北にその名を轟かせました。そして出羽最大の大名に成長し、江戸幕府成立時では57万石を領有。

 しかし、最上義光以後は没落。1622年、義光の孫・家信(義俊)は家臣の争いにより改易され、以後、山形城を現在の姿に整えた鳥居忠政(24万石)をはじめ、徳川家の親藩・譜代の大名が、石高を減少させながら次々と入城し、最後は水野氏5万石で明治維新を迎えます。

 明治維新後、建物は全て無くなりましたが、1991(平成3年)に二ノ丸東大手門(上写真)が復元。また、城内には東北地方初の医学校と病院館として1878(明治11)年に建てられた旧済生館本館を移築。国の重要文化財に指定されています(現在は、山形市郷土館として使用)。
(写真・本文:裏辺金好)

○場所



○風景


躍動感あふれる最上義光の像


城内に掲示されている絵図と整備予定図


二の丸東大手門


本丸一文字門
本丸内部は2011年9月現在、復元されておらず。


南門


南門周辺
こちらは水を張った堀が残っています。


済生館

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