仙台城〜宮城県仙台市〜 


○解説

 仙台城は1610(慶長15)年、戦国時代後期の大名、伊達政宗が築城したもの。別名として青葉城ともよばれるこの城は、標高120mにそびえるもので、将軍徳川家康の警戒を避けるために, あえて天守閣は設けなませんでしたが、東と南を断崖が固める天然の要害に築かれた壮大な規模の城です。

 明治維新後は東北鎮台(のち仙台鎮台→第2師団)が置かれ、その失火により二の丸御殿が焼失。一方、残存した大手門、脇櫓、巽門は国宝に指定されましたが、第2次世界大戦によるアメリカ軍の仙台空襲で、城の建物は完全に焼失し、戦後は連合軍のキャンプが建設。後に返還され、二の丸には東北大学が設置されました。

 1967(昭和42)年、民間の寄付によって脇櫓(隅櫓)が鉄筋コンクリート造りで復元され、伊達政宗公の銅像の風景と共に仙台随一の風景として非常に名高い場所となっています。ちなみに近年、艮櫓の復元の計画もありましたが史跡保護の問題など、諸条件により2003(平成15)年に中止されました。一方で整備計画が発表され、大広間遺構表示や、将来的には大手門の復元などが盛り込まれています。上写真は復元された脇櫓と、大手門跡の風景。 (写真&解説:裏辺金好)

○場所



○風景


仙台城の全景(城内の案内板より)。西に本丸、東に二の丸、その間(南)に三の丸が設置。三の丸には現在、仙台市博物館があります。


大手門(復元模型)
現在は道路が貫通し、復元された大手門脇櫓を除いて見る影もありませんが、往時はこのような姿でした。



伊達政宗像
 仙台のシンボルとしてあまりに有名な騎馬像。戦前に設置されたものは第二次大戦時の金属供出で肩から上を除いて失われてしまい(現在は仙台市博物館の裏手に存在)、現在のものは戦後造られたものです。


本丸石垣
 全面的に解体修復が行われた石垣。形が整えられた石垣がびっしりと詰まった姿は非常に美しいもの。仙台城の見所の1つです。

清水門跡
 三の丸と沢の曲郭の境界にあった門。「清水」の名前は、仙台藩の御用酒作りに使用した清水があったからだとか。石垣は築城初期のものが残り、荒々しい姿が力強さを感じます。


築城期の石垣モデル
 伊達政宗が仙台城を築城した17世紀初頭の石垣。本丸北壁の石垣解体修理工事によって発見されたものを、再現したものです。

本丸北壁の石垣モデル
 17世紀後半から、第4代藩主の伊達綱村時代に造られた石垣。本丸北壁の石垣解体修理工事の結果、破損等で使用できなくなったものを、積み上げて再現しています。築城期の違いによる石垣構築方法の技術がよく解りますね。

本丸からの眺め
 仙台市中心部を一望できる本丸。

詰の門跡
 本丸登城口に設置されていた詰の門。2階建て、瓦葺の門で、左右の石垣の距離は19.5m(65尺)と大手門と同じ幅。かなり壮大な門が建っていたようです。
 なお、門の左右には三重の脇櫓が建っていましたが、早くも1646(正保3)年の地震で倒壊しました。

三の丸巽門跡
 戦災で焼失するまで残っていた巽門跡。三の丸は伊達政宗の時代には茶室や庭園のある屋敷があり、その後は米倉などの収蔵施設(蔵屋敷)が設置されました。

子の門跡
 現在は仙台市博物館の入り口にあたる、三の丸の子(ね)の門跡。三の丸に2つあった門のうちの1つで、木造2階建て瓦葺のものでした。

三の丸堀(五色沼)
 実は日本フィギュアスケート発祥の場所。1890(明治23)年ごろから外国人が冬季にここでスケートを始め、日本の学生も指導を受けて、日本人として初めてスケートをするようになりました。

大手門脇櫓(隅櫓)
 仙台城において、江戸時代の建造物を偲ばせることが出来る唯一の櫓(城外に移築された門はいくつかあるようですが)。大手門も復元も何度も計画されていますが、交通量の多い道路の移設などが問題になるため、なかなか実現には至っていません。

支倉常長
 仙台城の銅像でもちょっとマイナーなのがこちら。支倉常長(はせくらつねなが/1571〜1622年)は伊達家の家臣で、西洋との貿易を望む政宗の命令によって1613(慶長18)年、月ノ浦(現在の宮城県石巻市)を出航し、なんとスペインに派遣されました(慶長遣欧使節)。
 スペインではフェリペ3世に謁見し、ローマでは教皇パウロ5世に謁見。熱烈な歓迎を受けますが、あまり成果は上がらず帰国。その後の動静はよく解っていませんが、隠遁生活の中で病死したとも。

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