会津若松城〜福島県会津若松市〜 
  Aizu Wakamatsu Castle
 1384(至徳元)年、蘆名直盛によって築城された黒川館を発祥とし、次第に黒川城として整備が進められていきます。そして、1589(天正17)年に伊達政宗が蘆名氏を滅ぼして黒川城を手に入れました。しかし、天下統一目前の豊臣秀吉には逆らえず城を取り上げられ、召し上げられてしまいました。
 
 伊達政宗に代わって、1590(天正18)年、豊臣秀吉配下の蒲生氏郷がこの地に移封されると、地名を若松に改称し、本格的な天守閣が建造されます。城は「鶴ヶ城」と呼ばれるようになり、現在でも地元では通称として親しまれています(ちなみに、国指定史跡名称は、若松城跡)。

 蒲生氏郷の次は、その子である蒲生秀行が継ぎますが、家中騒動を理由として92万石から宇都宮18万石に移封され、代わって上杉景勝が120万石で春日山から入城。しかし、関ヶ原の戦いで石田三成に味方して徳川家康に敵対したことから、米沢30万石に移封され、代わって再び蒲生秀行が入ります。そして、次男の忠知は伊予(愛媛県)の松山城に移封され、入れ替わりで松山から加藤嘉明が入封します。その子である加藤明成によって、現在見られる5重の天守閣への改築や、防御が手薄なエリアの石垣の大規模な整備、空掘を水掘に変えるなど城郭を整備しました。

 ところが1643(寛永20)年に加藤明成は改易され、江戸幕府第3代将軍徳川家光の弟である保科正之が、23万石で山形から入城しました。これ以後、明治維新まで会津松平氏の居城となり、幕末には幕府方の中心として奮戦。戊辰戦争では、会津戦争と別名がつくほど抵抗し、板垣退助率いる新政府軍と1ヶ月に及ぶ籠城戦を繰り広げた末に降伏しました。
 
 このために城は大きく破損しましたが、焼失することも無く、蒲生氏郷や加藤明成の設計がいかに優れていたかを示したことになります。また、近世城郭の中で実際の戦闘を経験した数少ない城の1つとしても特筆できます。

 しかし、新政府としては会津若松城をそのまま残しておくことは、反政府へのシンボルとなる恐れもあり、また現実問題として被害が著しかったこともあったことから、明治7年に天守閣その他の建造物取り壊されました。今見る天守閣は、幸いにも古写真が残っていたことから1965(昭和40)年に鉄筋コンクリート及び一部木造で復元されたもので、郷土資料館として活用されています。また、2001(平成13)年には、天守に続く南走長屋と干飯櫓が復元されました。

 さらに、城内には千利休の息子、少庵(しょうあん)が蒲生氏郷のために建てた茶室「麟閣」が平成2年に再移築されているほか、城に近い阿弥陀寺(JR只見線 七日町駅前)に御三階と呼ばれる、かつて本丸にあった楼閣風の建築が、会津若松城唯一の遺構として残っています。
(撮影・解説:裏辺金好)
▼MAP

▼アクセス
JR磐越西線会津若松駅よりバス


▼関連サイト

会津若松市観光公社
会津藩校日新館  会津武家屋敷
会津若松城の風景

天守閣
 北側から見た姿。蒲生時代に構築された野面積(のづらづみ)の石垣の上に建てられた、五重五階の天守閣。
石垣内部には地下室である穴蔵もあります。


天守閣
 南側から見た姿で、天守の前に伸びるのは走長屋。


南走長屋と干飯櫓
 2001(平成13)年復元。当時の伝統工法を用いて建てられたもの。
天守閣から続く連続した建築群という、当時の状況が見事に再現されました。


本丸御殿跡
 現在は広場となっている本丸御殿跡。

茶室「麟閣」  【福島県指定重要文化財】
 千少庵(しょうあん)が蒲生氏郷のために建てた茶室。江戸時代も大切に使われてきましたが、明治になって城が取り壊されるに当たり、森川善兵衛(指月庵宗久)氏が譲り受けて、1872(明治5)年に自宅へ移築。以後、長らく森川家が大切に保存してきたものを、1990(平成2)年に市制90周年を記念して再移築されました。


茶室「麟閣」
入口の雰囲気。

高石垣
 本丸東側の石垣。なんと20mの高さで、城内一。
石垣は布積(ぬのづみ)で構築され、緩やかな美しい曲線を描いています。

廊下橋
 高石垣を左右に配置した廊下橋。

本丸内堀

本丸内堀

周辺の見所

御三階
 阿弥陀寺に現存する、会津若松城本丸中奥にあった楼閣風の建築。玄関部分は、本丸御殿の内玄関を取り付けたものといわれており、会津若松城の歴史を今に伝える貴重な建築です。
 外観は3階ですが、内部は4層になっており、2階と3階の間に天井の低い部屋があります。さらに、3階への階段は上から引き上げる仕組みになっていることから、どうやら密談をするときに使うものだったようです。


会津酒造歴史館 【市指定歴史的景観建造物】
 大正時代の建築。西郷邸跡のすぐ近く、かつての白虎隊長、一ノ瀬数馬邸跡に建築されたものです。
 会津の酒造りは、蒲生氏郷が関西から醸造技術者を招いたことに始まり、気候と風土が見事に適合し、名酒の産地となりました。宮泉銘醸(株)が現在も酒造を行っていますが、なんと一般公開を行っており、人気の観光スポットになっています。


会津葵本店
 西郷邸跡の向かい側、大手門近くに店を構える創作和菓子(南蛮菓子)の店。江戸時代から会津藩に伝わる料理献立書や茶会記の中から読みとったものを、現代に甦らせているそうです。


西郷邸跡
 会津若松城下にある、幕末の会津藩家老、西郷頼母の屋敷跡。新政府軍が攻めてくると西郷頼母は城内に入りますが、その妻と娘など一族は「もはやこれまで」と自害したという悲劇の場所です。


会津武家屋敷「西郷邸」
 会津若松市郊外の東山町に復元された、西郷頼母邸。
屋敷の図面が残されていたことから、忠実に復元することが出来、家老屋敷の様子を見ることが出来ます。

会津藩校「日新館」
 会津若松城の西隣に設けられた会津藩の学校で、1803(享和3)年に開校。「ならぬことはなりませぬ」など、会津藩士風と儒学を教え、数ある諸藩の藩校の中でも最大規模といわれています。
 惜しくも戊辰戦争で焼失しましたが、1987(昭和62)年に会津若松市郊外の河東町に完全復元され、その壮大な規模と学習の様子を見ることが出来ます。


会津藩校「日新館」
 白虎隊の若者たちも学んだ、勉学の風景。