古河城〜茨城県古河市〜
○解説
古河城は、下河辺行平が平安時代末期頃に造った城館が始まりと云われています。室町時代になり、鎌倉公方であった足利成氏が享徳の乱によって1455年(康正元)に鎌倉を失ったことに伴い、古河城の南側に鴻巣御所を築造し、間もなく古河城の整備を行い拠点とします。
その後は小田原北条氏の台頭により、次第にその勢力下に入りますが、豊臣秀吉によって北条氏が関東を失い、代わって徳川家康が入封すると、徳川家康に従っていた小笠原秀政が3万石で領有。関ヶ原の戦い後は、松平(戸田)康長や小笠原信之、奥平忠昌など城主が次々と変わる一方で、古河城の整備が進められていきます。
中でも1633(寛永10)年に城主となった土井利勝は16万2000石で入封し、本丸に実質的な天守として御三階楼を造営するなど、古河城を大規模に整備します。
明治になって取り壊され、1910(明治43)年から進められた渡良瀬川改修工事時に多くが河川敷となり、完全に遺構は壊されてしまいました。ただし、市内の福法寺には古河城乾門(上写真)、文庫蔵(坂長本店御文庫・袖蔵)が払い下げられて現存しています。
また、古河藩の家老で鷹見泉石などが住んだ武家屋敷が鷹見泉石記念館として、古河城の諏訪郭跡付近に現存。鷹見泉石は、大塩平八郎逮捕に活躍した人物で、蘭学者でもあったことから渡辺崋山とも親交がありました。
(撮影&解説:裏辺金好)
○場所
○風景
鷹見泉石記念館
1633(寛永10)年に古河城主土井利勝が、古河城御三階櫓を建造したときの余材を使って、藩士のために建てたと伝えられています。奥氏・潮田氏・鷹見氏など家老を務めた人間が入居しました。
鷹見泉石記念館
鷹見泉石記念館
鷹見泉石記念館
鷹見泉石記念館「繍水草堂」
繍水草堂は、明治時代を代表する女流画家、奥原晴湖(1873〜1913)年の画室。元々は埼玉県熊谷市にあったものですが、実家のある古河に移築したものです。なお、玄関と廊下は図面に基づき復元したものです。
古河歴史記念館と諏訪郭跡
辛うじて往時の面影を残しているのが諏訪郭跡です。
坂長本店店蔵・袖蔵 【国登録有形文化財】
日光街道古河宿近く、江戸初期から両替商を始め,江戸末期頃から酒問屋を営んでいる商家です。上写真のうち左側の店蔵は、江戸時代後期に建てられた旧古河城文庫蔵を移築したといわれます。また、写真手前側の袖蔵は、1863(文久3)年に建てられた旧古河城乾蔵を移築したといわれます。
ぬたや屋本店
「甘露煮」の名店で、鮒の「あらい」を古河では「ぬた」と呼ぶことから、この屋号で呼ばれています。
古河市立古河第一小学校赤門
1904(明治37)年に古河第一小学校が建築されて以来の面影を今に伝えています。