松戸城/戸定邸〜千葉県松戸市〜


○解説

 松戸城の発祥は定かではありませんが、室町時代〜戦国時代にかけて使われた城と考えられています。織田信長が本能寺の変に散った1582(天正10)年ごろは、小金城主高城胤辰の一族高城筑前守が城主であったといわれ、小金城(松戸市大谷口)の支城としての役割を担っていたと考えられています。

 江戸時代になると、松戸は徳川家の旗本の知行地として存在。城自体は廃城となり、現在ではその遺構は不明瞭ですが、1884(明治17)年に水戸藩最後の藩主であった徳川昭武がこの地に屋敷を造営し、隠居します(水戸藩当主は甥の徳川篤敬が相続)。ここには兄の徳川慶喜がたびたび訪れ、趣味の狩猟や写真を楽しんでいます。

 1951(昭和26)年に、昭武の息子である徳川武定が土地と建物を松戸市に寄贈し、現在は「戸定が丘歴史公園」「戸定邸」として開放されています。

 2006(平成18)年に建物が旧徳川家住宅松戸戸定邸として国の重要文化財に指定されたほか、2015(平成27)年に庭園が旧徳川昭武庭園(戸定邸庭園)として国指定名勝に指定されています。
(撮影&解説:裏辺金好)

○場所



○風景




表玄関


内蔵
玄関に入って左側に現れる内蔵。


客間


書斎






衣装の間、化粧の間


八重の間
徳川昭武の妻、八重の部屋


風呂
浴槽は大正10年以降、おそらく昭和初期と考えられています。それ以外は明治時代のまま。



離座敷(秋庭の間)
昭武の生母、万里小路睦子(までのこうじちかこ。秋庭(しゅうてい)と号した)の居間。


離座敷(秋庭の間)



使者の間
表玄関から左側の部屋で、来客者の従者が使用。1946(昭和21)年に移築撤去されていましたが、1998(平成10)年に移築先の千葉県印西市から再移築され復元されました。

使者の間(トイレ)






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