江戸城〜東京都千代田区〜
○解説
1457(康正3)年に太田道灌(どうかん)が築城。のち、太田道灌が上杉定正に殺害されると扇谷上杉氏の領有するところとなり、さらに1524(大永4)年に扇谷上杉氏を破った北条氏綱の支配下にはいります。1590(天正18)年に豊臣秀吉が小田原の北条氏を滅亡させると、関東地方(関八州)を与えられた徳川家康が入城し、本拠として城と城下町の整備を始めます。さらに関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が江戸幕府を開くと、その拠点として諸大名に命じて江戸城の拡張に着手。家康の死後も工事が続けられ、最終的には東西約5q、南北約3.9kmという内郭を持つ日本最大の城郭となりました。
天守閣は、徳川家康、徳川秀忠、徳川家光が各々、壮麗なものを建築しますが、1657(明暦3)年に発生した明暦の大火で焼失。その後、加賀藩主の前田綱紀が担当して天守台は復興させたものの、天守閣が再建されることはありませんでした。
その後、1868(明治元)年4月に明治新政府軍に明け渡され,10月に江戸城を東京城と改めた後、翌年に皇居となり現在に至ります。現在は本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡が皇居東御苑として毎日一定時間解放されているほか、南東側が皇居外苑、北側は北の丸公園として整備されています。
とにかく広大な江戸城。散策すると、数多くの門や櫓が残ることに気づかされるほか、外堀の遺構は都内のあちこちで見かけることが出来ます。
(写真&解説:裏辺金好)
○場所
○風景
大手門 (冒頭の写真も)
江戸城の正門。江戸時代から残る高麗門と、戦災で焼失し、1967(昭和42)年に復元された櫓門から成ります。
同心番所
大手門をくぐると、同心が詰め、登城する大名をチェックしていた同心番所が残っています。
百人番所
さらに、本丸と二の丸につながる大手三之門そばに設置された番所があります。甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組などが詰め、各組には100人ずつ同心が配属。
大番所
続いて中之門そばに設置された大番所が見えてきます。他の番所よりも位が高い与力、同心によって警護されていました。
天守台
1657(明暦3)年の江戸大火による天守閣焼失後、天守台だけは前田家の担当で復興しました。なお、元の高さは7間だったが、復興の際には6間と低くなっています。
※1間・・・約1.82m(6尺)
江戸城本丸・二の丸御殿復元模型
江戸東京博物館で展示されている、幕末期の江戸城本丸と二の丸御殿の復元模型。幕末になかった天守閣はイメージとして設置されています。
北桔橋門
本丸北の門。江戸城天守台などを見学するさい、北からの出入り口はここからとなります。
桜田巽櫓
桔梗門
現在は、宮内庁の関係者や皇居参観の時の入口などとして利用され、通常は入ることが出来ません。
正門石橋及び二重橋
西の丸大手橋を1899(明治22)年に架け替えた石橋と、奥にあるのが二重橋。
伏見櫓
二重櫓。左右に多門櫓を持ちます。
坂下門
現在は宮内庁への出入り口となっている坂下門。1862(文久2)年、老中の安藤信正が水戸藩浪士などによる襲撃を受けた、坂下門外の変の舞台でもあります。ここから先も普段は非公開ですが、桜の時期などに公開されることも。ということで、北側の乾門に向けて風景を見てみましょう。
宮内庁庁舎
1935(昭和10)年築。鉄筋コンクリート造3階建ての近代建築です。
富士見櫓
江戸城天守閣の代用として使われたもので、関東大震災で倒壊したが復元されています。
富士見多聞櫓
本丸の多聞櫓。
門長屋
道灌堀
乾堀
奥が本丸。
乾門
本丸北の門。年始の宮中参賀などでは出口として使用されます。
旧・近衛師団司令部庁舎 (現・東京国立近代美術館工芸館) 【国指定重要文化財】
1910(明治43)年築。陸軍技師田村鎮の設計で、乾門を抜けると広がる北の丸にあります。レンガ造り、二階建て、スレート葺。
千鳥ヶ淵
桜の名所として知られる千鳥ヶ淵。
桜田門 【国指定重要文化財】
1663(寛文3)年頃築。高麗門、脇戸付櫓門から成り、井伊直弼暗殺で有名な場所です。なお、写真反対側は警視庁ほか中央省庁が広がります。
半蔵門
名前の由来は、門前に服部半蔵の屋敷があったからといわれます。なお、半蔵門は第二次世界大戦で焼失し、現在の高麗門は和田倉門から移築。
平川門
木橋が印象的な門。枡形の門形式と共に、かつての雰囲気を良く伝えています。
田安門
北の丸北端に位置する門で、この付近に田安家の屋敷が設置されました。なお、門は上の櫓部分は関東大震災で崩壊し、戦後に復元されたもの。奥に武道館が見えます。