世田谷城/豪徳寺/世田谷代官屋敷〜東京都世田谷区〜


○解説

 世田谷城は南北朝時代〜戦国時代の城で、足利氏の一族である奥州(武蔵)吉良氏の居城でした。

 築城されたのは、1366(貞治5)年、吉良治家・頼治の頃と言われ、吉良氏はその後、吉良頼康の頃には小田原の北条家と縁戚関係になりますが、1590(天正18)年の北条家滅亡と共に、この城も廃城となりました。なお、吉良氏自体は足利家庶流のため、 徳川家によって「高家」に列せられ、蒔田氏として存続した後、赤穂事件によって三河吉良氏が断絶したことを契機に「吉良」へ復姓しています。

 一方、世田谷は1633(寛永10)年に、彦根藩井伊家の領地となり、1480(文明12)年に世田谷城主の吉良政忠が、亡くなった伯母の膨大を弔うために世田谷城内に創建したと云われる「弘徳院」を井伊家の江戸菩提寺と定めました。そして1659(万治2)年に第2代藩主井伊直孝の法号「久昌院殿豪徳天英大居士」に因み、豪徳寺と改称され、世田谷城の領域の多くを活用し伽藍を整備しました。

 境内は桜田門外の変で殺された、大老・井伊直弼の墓をはじめ歴代彦根藩主や正室たちの墓や1677(延宝5)年建立の仏殿が見どころ。また、井伊直孝が寺の門の前にいた猫に門内に招かれたおかげで雷雨を避けられた上に、和尚の話を聞くことができたことを喜び、後に井伊家御菩提所とした故事から招き猫発祥の地と云われ、招き猫が沢山鎮座しており、人気の観光スポットになっています。

 また、開発を免れた一角が世田谷城址公園として整備され、土塁、空堀を見ることができるほか、東急世田谷線を挟んで南側に彦根藩の世田谷代官屋敷が残り、住宅主屋及び表門の2棟が国指定重要文化財に指定されています。
(写真&解説:裏辺金好)

○場所



○世田谷城の風景


世田谷城の縄張





○豪徳寺の風景


山門
豪徳寺は、弘徳院時代の1584(天正12)年に臨済宗から曹洞宗に改宗し今に至ります。



三重塔
2006(平成18)年築。高さ22.5mです。


仏殿 【世田谷区指定有形文化財】
1677(延宝5)年築。彦根藩2代藩主・井伊直孝の娘である掃雲院が、兄弟で彦根藩3代藩主・井伊直澄の菩提を弔うために建立したもの。当時流行した、黄檗様式の影響が随所にみられるほか、絵様肘木(えようひじき=唐草や渦などの文様を彫った肘木)など特異な様式が使われています。




招福殿
あっちもこっちも招き猫だらけ!


彦根藩主井伊家墓所 【国指定史跡】



井伊直弼墓

○世田谷代官屋敷の風景

 世田谷代官屋敷は、彦根藩井伊家の世田谷領の代官を世襲した大場家の私邸かつ役宅。大名領の代官屋敷としては、都内唯一の現存例です。
 大場家は、はじめ元宿(世田谷区役所のあたり)に屋敷を構えていましたが、1570年頃(天正年間の初め頃)に現在の場所に移され、現在の建物は7代の大場盛政が1838(元文2)年に建築したものです。1840(元文4)年、盛政は代官職に登用され、1753(宝暦4)年、役向専用に「書院座敷」を増築し、居宅部分にも改修を加えました。
 1854(嘉永7)年、11代当主の隼之助景長が2階座敷を増築し、名主詰所も新たに設けました。


表門 【国指定重要文化財】
寄棟造の長屋門形式で、茅葺屋根。



主屋 【国指定重要文化財】
寄棟造で、茅葺屋根。

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