1528(享禄元)年に発生した宗氏の一族内紛により、宗氏の「池の館」が炎上。そのため、宗氏第14代当主である宗将盛が、清水山の麓にある築城したのが、金石城の始まりです。「かねいしじょう」、もしくは「きんせきじょう」と読みます。最近は、「かねいし」で統一されつつあるようですが。
さて、築城当時は金石館(屋形)と呼ばれていましたが、1665(寛文5)年に宗義真(よしざね/21代当主)が大々的に大手櫓門などを築城し、正式に金石城と称します。ただし、天守閣は造られませんでした。また、同時に桟原城(さじきはら)も造られ居城が移動したため、金石城は副城的な存在として存続していました。
明治維新後、1817(文化14)年に再建された大手櫓門(写真上)のみ残存していましたが、1919(大正8)年に解体。1989(平成元)年に解体後も残っていた部材と、古写真を元に復元されています。入母屋二重櫓の下部を城門とする、非常に珍しい形態です。
(写真:デューク/解説:裏辺金好)
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