羽柴秀吉による水攻めで有名な備中高松城は、備前と備中の国境線近くに造られた平城であり、三方を山に、もう一方を足守川に囲まれ、さらに周囲は沼地に囲まれた城です。天正年間(1573〜92)年の始めにに戦国大名の三村氏の有力な武将、石川久孝が宇喜多直家からの防衛のために創築しました。久孝の死後、その配下による争いが起こり、清水宗治が勝利。宗治は有力な戦国大名、毛利氏の一族である小早川隆景に従属します。
ところが、1582(天正10)年に織田信長の重臣、羽柴秀吉が備中高松城に攻撃開始。宗治はこれを防御することに成功しますが、諦めない秀吉は山と川に囲まれた地形を利用し、梅雨の時期に足守川をせきとめ、一気に決壊。備中松山城を水上に孤立させることに成功します。そのとき、本能寺の変が発生し、織田信長が亡くなったことから、秀吉は宗治の切腹による講和を成立させ、東へ転進していきます。
その後、備中高松城は宇喜多秀家の家老である花房正成が城主に。花房氏は徳川家に離反したため、関ヶ原の戦い後も備中高松城を領有し、陣屋として大阪夏の陣ごろまで使用されました。
(解説:裏辺金好)
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