宇都宮城・栃木県庁昭和館など〜栃木県宇都宮市〜
○解説
宇都宮城は藤原秀郷か、藤原(宇都宮)宗円が前九年の役(1051〜62年)の功によって得た領地に館を構えたのが始まりといわれています。その後、戦国時代まで宇都宮氏の居城として発展し、関東7名城の1つと称されますが、豊臣秀吉の時代に石高を偽ったとして、宇都宮国綱が備前(岡山県)に配流。浅野長政がしばらくの間、城代となりました。その後はめまぐるしく城主が変わり、1598(慶長3)年に蒲生秀行、関が原の戦い後に奥平家昌(10万石)、奥平忠昌、次いで1619(元和5)年に本多正純(15万5000石)が入封し、彼のときに現在の宇都宮城と宇都宮の街並みが大々的に整備されました。
ところが彼は、将軍徳川秀忠が日光参拝時に宇都宮城に宿泊するときに、御殿内の釣天井で暗殺しようとした、として改易処分となります(これを宇都宮城釣天井事件といいます)。
講談や歌舞伎の題材となり、誇張されて伝わっている部分も多いですが、ともあれ政敵の多かった本多正純が失脚したものであり、再び奥平忠昌が入封します(ちなみに奥平忠昌の祖母(亀姫)は徳川秀忠の姉であり、「宇都宮城に不審な点がある」と秀忠に密告した人物)。
以後は奥平松平氏、本多氏、奥平氏、阿部氏、戸田氏、深溝松平氏とまだ城主は変わり、最終的に1774(安永3)年に戸田忠寛(ただとお)が7万8000石で入封すると、幕末まで戸田氏の支配下となりました。
ちなみに、宇都宮城は歴代の将軍が日光東照宮に参拝する途中の宿泊場と指定されており、本丸には将軍しか使用できない御成御殿が設置。また、小田原城と共に江戸城の守りとして重要な地位を占めました。
ところが戊辰戦争で新政府方についた宇都宮藩は激戦地となり、大鳥圭介、土方歳三らに率いられた旧幕府軍が宇都宮城を攻略。さらに奪還に来た新政府軍と激しい戦闘を繰り広げ、旧幕府軍は敗北しますが宇都宮城と城下は炎上し、大半の建造物を失いました。
さらに、戦後に至るまで宇都宮城の堀や土塁などは続々と埋められたり、取り壊されたりと破却の一途を進み、平成になる頃には本丸の一部区域がかろうじて残る程度。しかし、「よみがえれ!宇都宮城」市民の会が中心となって宇都宮城の復元計画がスタート。2007(平成19)年3月に、天守の代わりをしたといわれる清明台(上写真左の櫓)と、富士見櫓(上写真右奥)と、土塀、土塁、堀が復元完了し、ついに宇都宮城の往時の風景が現代によみがえりました。今後は、御成御殿、清水門、伊賀門の復元を目指すとのこと。
このページではこのほか、旧栃木県庁本庁舎である栃木県庁昭和館など、周辺の見所もセットで御紹介します。
(写真&解説:裏辺金好)
○場所
○宇都宮城
富士見台櫓
2007(平成19)年、木造で復元されました。土塁の上に石垣で台を設置し、櫓を造るという特徴的な姿を見ることが出来ます。
清明台
こちらも同じく2007(平成19)年、木造で復元されました。
内堀
復元された本丸堀。西側については、道路があることから広さは縮小されており、歩道上に往時の堀の境界線を明示しています。なお、御覧のように土塁に横穴が開けられ、橋が架かっていますが、江戸時代には無かったもの。これはちょっと残念です。
宇都宮城本丸復元模型
今回復元されたのは、写真手前側の西3分の1にあたる部分。本丸には将軍のための御成御殿のみがありました。
宇都宮城とその周辺
交通の要所だった宇都宮城。主に城の西側と北側が発展しました。戊辰戦争では、旧幕府軍に東側から攻められて落城したとか。
○周辺の見所
宇都宮二荒山神社
宇都宮城が出来る前から存在したもので、下野国の一宮(いちのみや)の社格を誇っています。宇都宮の地名は、この一宮が転じたものとも言われています。のちに宇都宮氏が座主となり、現在も宇都宮城の真北に鎮座しています。
栃木県庁昭和館
1938(昭和13)年築。設計は佐藤功一。2003(平成15)年まで栃木県庁の本館として使用されてきたもので、2008(平成20)年に正面部分をカットの上、県庁敷地内で移築保存しました。
栃木県庁模型
昭和館で展示されているかつての姿。
カトリック松が峰教会 【国登録有形文化財】
1932(昭和7)年築。設計はマックス・ヒンデル。宇都宮特産の大谷石を大部分に使い、双塔を持つ建物です。
旧篠原家住宅 【国指定重要文化財】
1895(明治28)年築。醤油醸造業や肥料商を営んでいた旧家で、黒漆喰や大谷石を用いた外壁が特徴です。