室町時代の名族で近江守護、佐々木(六角)氏の居城で、南北朝時代に築かれたと考えられています。
標高432.7mの繖山(=きぬがきやま、通称:観音寺山)に築かれたもので、大小多数の郭を持った壮大な規模を持つ山城でした。また、主に六角義賢によって整備された城下町は、日本初の「楽市」に指定されたのが特徴。経済史上も重要な場所です。
さて、応仁の乱では西軍に属した六角氏は、同族の京極氏に攻められ、観音寺城に籠城して抵抗。さらに応仁の乱終結後は、9代将軍足利義尚、さらに10代将軍足利義稙による攻撃を受け、いずれも一時的に城を奪われますが、程なくしてこれを奪還しています。また、この頃から観音寺城は城塞として本格的に整備が進められました。
しかし、戦国時代の六角義賢(承禎)・義治の頃になると六角氏は北近江の浅井氏の勃興によって衰退。さらに1568年、足利義昭を奉じて上洛を開始した織田信長の軍勢の前に、六角義賢らは城を捨てて逃亡。観音寺城は織田家のものとなりますが、次第に使われなくなったようです。
なお、日本城郭協会選定・日本百名城の一つに数えられています。上写真は観音寺城跡がある繖山。
(撮影:
はた@楽園特急)