中津城〜大分県中津市〜 
  Nakatsu Castle

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▼アクセス
JR中津駅より徒歩

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 中津城は1587(天正15)年、九州を平定した豊臣秀吉に豊前六郡を与えられた黒田官兵衛(如水)が、その本拠として築城を開始したのが始まり。周防灘と山国川の河口デルタを利用した天然の要害を目指しますが、在地勢力の反発や文禄・慶長の役などによって築城工事は進まず、関ヶ原の戦いで功績が評価された黒田官兵衛・長政親子は筑前52万石に大抜擢され、中津の地を去りました。

 続いて中津を領有したのは細川忠興でしたが、翌年に小倉城を本拠とします。そのため、嫡男の忠利が中津城主となり中津城の工事を開始。もっとも、1604(慶長9)年に忠興は隠居し、中津城へ戻ってきたため、中津城は忠興の手によって三の丸増築など、中津城の大改修工事を実施されました。これによって、22基の櫓を備える壮大な規模となりましたが、天守閣は築城されませんでした。

 その後、細川忠利が肥後熊本へ転封となったことから、中津はしばらく小笠原氏の領有が続いた後、1717(享保2)年に奥平昌成が入封すると、以後は明治維新まで奥平氏によって領有されます。

 現在、中津城に江戸時代からの現存建築は無く、その縄張りも大きく縮小。川に面した本丸周辺が残り、1964(昭和39)年に旧藩主奥平氏の子孫が市民の寄附を受けて復興した模擬天守閣と二重櫓が中津市のシンボルとして親しまれています。

 その後、中津城は奥平政幸氏(九州読売新聞によると養子縁組で奥平家に入った人物)が社長を務める中津勧業の私有地でしたが、多額の維持費に耐え切れないことを理由として、中津市に売却を打診。しかし金額で折り合いがつかなかったことから、2010年4月に建物のみ埼玉県の福祉事業会社「千雅(ちが)」へ売却されました。そして、2011年5月には千雅が設立した社団法人「中津城」へ管理が移されています。

中津城の風景

二重櫓・天守閣
 中津市を代表する風景。かつての天守閣の風景は良く解ってはいませんが、マンホールの蓋にも描かれるなど親しまれています。

奥平神社
 奥平神社と天守閣、二重櫓。

生田門
 中津城本丸近くの南部小学校の校門。江戸時代は三の丸に当たるエリアで、この門は中津藩家老、生田(しょうだ)家の屋敷門でした。中津城に関連する建築としては、これが唯一の現存例。

御水道(復元)
 細川忠興、そして次の城主だった小笠原長次は中津城周辺に上水道の整備を積極的に進めました。これは、海岸に面した中津城周辺の水が飲料水に適さなかったことから、水道を引く必要があったため。非常に優れた設備で、1929(昭和4)年まで使用されていました。

福沢諭吉旧居

母屋
 「学問のすすめ」や慶應義塾大学開学の祖として有名な福沢諭吉の旧居。諭吉は1835(天保5)年、大坂の中津藩蔵屋敷に生まれましたが、1歳6ヶ月にして父親と死別し、中津へ帰郷。19歳のときに長崎、そして大坂へ蘭学を学ぶために進学するまで、この場所で過ごしました。

母屋(内部)
 

母屋(内部)

全景

土蔵
 福沢諭吉が自ら改造したもので、2階で勉学に励んでいました。

土蔵2階内部
 静寂な環境だったとは思いますが、かなり狭いものです。

中津城周辺 そのほか

浄安寺本堂
 1812(文化8)年築。浄安寺は小笠原長継の菩提を弔うため、長男の小笠原政直が建立したものといわれています。なお、福沢諭吉の父方の叔父で、一時養子になったこともある中村術平の墓などがあります。

大江医家資料館
 

村上医家資料館
 現在に続く中津の名医、村上家の資料館で江戸時代の建物。初代の村上宗伯は大坂で古林見宣に医学を学び、1640(寛永17)年に中津で開業しました。7代の村上玄水は、1819(文政2)年に九州で初めて人体解剖を行っているほか、9代村上田長は明治9年に、大分県最初の本格的新聞「田舎新聞」を創設し、後に西南戦争で戦死する増田宗太郎を編集長に自由民権を訴えたほか、大分中学校(後の上野丘高校)校長や玖珠郡長を務めました。

旧小幡記念図書館(現、歴史民俗資料館)
 1938(昭和13)年築。福沢諭吉の勧めで慶応義塾に入り、2代塾長となった小幡篤次郎、日本最初の歯科医師となった小幡英之助兄弟の生誕地です。

合元寺
 黒田孝高(官兵衛)が宇都宮鎮房らを討ったとき、この寺に籠もっていた宇都宮氏の家臣全員が討ち死にし、その返り血が何度塗り替えても浮き出たため、塀を赤くしたという伝説が残る寺。

金谷武家屋敷跡
 当時の武家屋敷は残っていませんが、中津は往時をしのばせる古い街並みがあります。

自性寺