箕輪城〜群馬県高崎市箕郷町〜
○解説
箕輪城は1500年代前半に、長野業尚または息子の長野信業によって榛名山東南麓の丘陵上を中心に築城された平山城。信業の子である長野業正の時代には、武田信玄がたびたび侵攻しますが退け、武田家の上州進出を阻びました。しかし1565(息子の長野業盛の時代に武田信玄の攻撃を受けて落城し、武田家配下の甘利昌忠、真田幸隆(幸綱)、内藤昌豊(昌秀)、内藤昌月(昌豊の子)などが城代に。武田家が織田家によって滅亡すると、上野一国を拝領した滝川一益が領有。さらに1582(天正18)年に織田信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると、北条家が上野国へ侵攻。神流川の戦いで滝川一益が敗れ、箕輪城は北条氏邦が領有します。
さらに、1590(天正18)年に北条家が豊臣秀吉によって滅亡すると、徳川家の重臣である井伊直政の居城となりました。現在の遺構は、この井伊直政の時代に改修を受けたものだそうです。
しかし1598(慶長3)年に井伊直政は高崎城へ移り、箕輪城は廃城となりました。1987(昭和62)年に国の史跡となったほか、2006(平成18)年に財団法人日本城郭協会によって日本100名城(16番)に選定。
また、2011(平成23)〜2017(平成29)年度にかけて整備が行われ、郭馬出西虎口門、二ノ丸・郭馬出間の土橋、本丸の土塁が復元されたほか、戦後に植林され、密植状態だった杉林が伐採されて堀切がよく解るようになっています。
(写真&解説:裏辺金好)
○場所
○風景
全体図
木俣曲輪
家臣の屋敷があった場所と思われます。
郭馬出西虎口門
発掘調査により井伊氏時代の城門の柱の礎石が8石確認出来たことから、現存している近世初期の城門を参考に2016(平成28)年に復元したもの。
大堀切の土橋と石垣
発掘調査によって石垣が出土したことから、埋め戻して保存。その上に同様の石垣を復元整備しています。
大堀切の土橋
大堀切
写真右手は三の丸。
二の丸
本丸門馬出し
本丸
本丸(史跡整備前)
本丸土塁
御前曲輪
本丸(左)と蔵屋敷曲輪(右)間の空堀
以前は木が生い茂り、とても散策可能な状態ではありませんでした。
三の丸
三の丸石垣
当時の高さは4mもあったとか。
○旧下田邸書院及び庭園
箕輪城付近、高崎市役所箕輪支所(旧箕輪町役場)の南に接して、旧下田家書院及び庭園があります。下田家は箕輪城主長野氏の重臣下田大膳正勝の子孫で、房勝山藩・白川陣屋の代官をつとめた家柄。桃山時代の様式を模した書院と、後に赤穂藩に仕え、さらに赤穂浪士となる堀部安兵衛武庸が作庭した庭園が、群馬県県指定重要文化財となっています。堀部安兵衛は、堀部家の婿養子となる前は中山姓を名乗り、剣術修行をしていた頃、先生の樋口十郎左衛門に従って年に1〜2回下田家に滞在することがありました。剣術を指南する傍ら、作庭も行っていたそうです。