倉賀野城〜群馬県高崎市〜


○解説

 JR倉賀野駅から真っ直ぐ南へ、中山道を越えて住宅街に入り烏川沿いにあったのが倉賀野城。おそらく烏川を天然の外堀にしたものでしょう。平安時代末期の治承年間(1177〜80年)に、武州児玉党の余流である秩父三郎高俊が領有して、居館を構えたのが始まりです。以後、倉賀野氏と名乗り子孫は戦国時代に至るまで勢力を保ち、関東管領の山内上杉氏に仕え、さらに倉賀野尚行は、1561(永禄4)年の上杉景虎(謙信)の小田原攻めにも協力します。
 この倉賀野城は中々重要な戦略拠点だったようで、上杉謙信や武田信玄は重要視。武田信玄によって倉賀野城が落とされると、倉賀野尚行は上杉謙信を頼って越後へ落ち延び、そして武田信玄と激闘を繰り広げた、長野氏の居城である箕輪城は孤立してついに落城。上州における勢力図を塗り替えました。
 その後、武田氏に従っていた倉賀野(金井)秀景が、滝川一益、北条氏直と主家を変えて、倉賀野城を奪還していますが、豊臣秀吉の小田原攻めで小田原城にいた際、前田利家、上杉景勝の攻撃で倉賀野城は落城し廃城となり、また倉賀野秀景は小田原で討ち死にしています。そして現在では遺構は殆どなく、場所もわかりにくい雰囲気です。
 さて、すぐ近くに八幡神社があります。1646(正保3)年に田口辰政が夢のお告げによって倉賀野城三の郭跡に行くと、一夜にして井戸が出現し、八幡大神が降臨。高崎城主の安藤重長に事の次第を訴えたところ、倉賀野城ニの郭跡に社殿を建立し神社として、田口辰政を神主とすることにしたという、どこまでが本当でどこまでがウソか解らない伝承を持ちます。また一説には、倉賀野三河守という人物が鶴岡八幡宮を勧請したものとも。
 現在の社殿は1859(安政6)年に建築されたものです。
(写真&解説:裏辺金好)

○場所



○風景


烏川
城跡の南を流れるもので、天然の水堀としていたのでしょうか。


八幡神社

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