前橋城と周辺の近代建築〜群馬県前橋市〜


○解説

 古くは厩橋と呼ばれたこの地に、城が築かれたのは15世紀のこと。この地域の豪族である長野氏による石倉城を起源とし、戦国時代には上杉謙信が小田原の北条氏を攻める際の拠点とし、また武田氏、さらには織田家の重臣、滝川一益、さらに北条氏も後に前橋を領有するなど戦略上重要な場所でした。

 北条氏が滅亡し徳川家康が関東を治めるようになると、側近の平岩親吉が送り込まれます。さらに関ヶ原の戦い後は川越から酒井重忠が入封し、下馬将軍といわれるほど権勢を誇った酒井忠清ら9代150年間、譜代大名の名門である酒井家の居城として機能します。また、1649(慶安2)年に厩橋を前橋と改称しています。

 1749(寛永2)年になると酒井忠恭が姫路に移封され、その姫路から代わりに松平朝矩が15万石入城。ところが城の横を流れる利根川の洪水によって城が崩壊。この松平家は代々、転封に次ぐ転封で全国を渡り歩いた家柄で、お金も無かったこともあってあり、前橋城の修築が財政的に困難でした。

 そこで1767(明和4)年に川越に居城を移し、前橋城は陣屋を置いて廃城になりました。これで城の歴史は終わるかと思いきや、1867(慶応3)年に再び修築。藩主が戻ってくることになり、また土塁の要所要所に砲台を設置するなど、時代の変化に多少合わせた構造になっています。

 ・・・ところが翌年に明治維新。1871(明治4)年の廃藩置県によって前橋城は廃城となり、城跡は公共用地などに転用。本丸に群馬県庁、二の丸に前橋市役所、三の丸に前橋公園が置かれ、わずかな土塁を残して痕跡を余りとどめていません。このページでは前橋城のほか、群馬県庁など周辺の近代建築を併せてご紹介します。
(写真&解説:裏辺金好)

○場所



○風景


複雑な縄張りを持つ幕末時代の前橋城。


本丸土塁


本丸土塁


本丸土塁


本丸北側を守った高浜門跡


前橋東照宮
1871(明治4)年に前橋藩主の松平家が、領地であった川越から解体移築したもの。


車橋門跡
外曲輪から城内に至る重要な門。酒井忠清が藩主だった時代(1637〜81年)に冠木門から渡櫓門に改築。前橋城の貴重な遺構ですが、1964(昭和39)年の土地区画整理事業に伴い、西側の台石が東へ8m移動しています。

○周辺の近代建築


群馬県庁旧本庁舎(昭和庁舎)
1928(昭和3)年築。設計は佐藤功一。本丸に県庁が置かれるのは福井城の例がありますが、前橋城は内堀まで破壊され、土塁の一部を除いて更地化。


群馬会館
1930(昭和5)年築。こちらも群馬県庁昭和庁舎と同じく佐藤功一の設計。

臨江閣
写真左側が別館及び渡廊下、右側が本館及び茶室。


臨江閣本館及び茶室 【群馬県指定重要文化財】
1884(明治17)年築。群馬県令の楫取素彦(かとり もとひこ)や市内の有志らの協力と募金により、迎賓館として建築したもの。



臨江閣本館1階 【前橋市指定重要文化財】


臨江閣本館2階 【前橋市指定重要文化財】


臨江閣別館及び渡廊下 【前橋市指定重要文化財】
1910(明治43)年築。前橋市で開催された1府14県連合共進会の貴賓館として建てられたもの


臨江閣別館及び渡廊下 【前橋市指定重要文化財】
1910(明治43)年築。前橋市で開催された1府14県連合共進会の貴賓館として建てられたもの。

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