米沢城〜山形県米沢市〜


○解説

 伊達政宗が生まれた城であり、また江戸時代は米沢藩上杉家の居城として名高い米沢城。
 築城されたのは鎌倉時代の1238(暦仁元)年といわれ、大江広元の次男・時広が地頭として置賜郡長井郷の地頭として赴任したときと考えられています。もちろん、当時は居館程度のものだったでしょう。のち長井氏を名乗り代々支配しますが、室町時代初期、1380(康暦2)年に伊達郡の領主伊達宗遠の攻略により滅亡。米沢城は伊達氏の城の1つとなります。
 そして1548(天文17)年、伊達晴宗は米沢城を本拠として伊達氏と米沢の縁が深まります。
 この城で生まれた伊達政宗は米沢城などを拠点に戦い東北地方を一気に侵略しますが、1591(天正19)年に豊臣秀吉に降伏せざる得なくなり、政宗は岩出山城に移封され、代わりに会津に封じられた蒲生氏郷の領有となり蒲生郷安が米沢城主となりました。
 しかし蒲生氏の会津支配は長く続かず、1597(慶長2)年に越後春日山より上杉景勝が会津120万石で入封。そして米沢は上杉家の重臣である直江兼続が30万石で領有しました。
 ところが関が原の戦いに敗北した上杉家は、この米沢30万石へ領地を大幅削減。基本的に家臣の召し放ちなどを行わなかったため、非常に苦しい財政運営を強いられる一方、上杉景勝と直江兼続は米沢城と城下町の整備を行い、米沢発展の基礎を造りました。さらに4代藩主の上杉綱憲が末期養子を許され15万石で相続することになり、さらに財政は逼迫。
 上杉家存続の危機に見舞われましたが、9代藩主である上杉治憲(鷹山)は、家臣の意識改革、産業振興政策、新田開発などさまざまな改革によって破綻寸前の米沢藩の財政再建を実現。これにより、上杉家は幕末まで米沢藩を無事に治めることができました。
 戊辰戦争時には仙台藩と共に奥羽列藩同盟の中心となり、主に越後方面で新政府軍と戦いますが、敗北して降伏。1873(明治6)年には米沢城は破却され公園となり、現在は当時を偲ばせる建築物は残っていません。縄張りの遺構も本丸を中心に一部残る程度ですが、現在の城跡には上杉謙信公を祀る上杉神社のほか、1923(大正12)年に宝物殿として創設された稽照殿(けいしょうでん)、市立上杉博物館、福徳稲荷神社、春日神社、旧上杉伯爵邸(上杉記念館)などがあり、米沢随一の観光名所となっています。
(写真&解説:裏辺金好)

○場所



○風景




舞鶴橋 【国登録有形文化財】
1886(明治19)年築。米沢城本丸跡の堀に架かる石造橋で,上杉神社への参道となっています。


米沢城跡(松が岬公園)案内図

上杉謙信公銅像

ケネディ大統領やクリントン大統領も尊敬する人物の1人に挙げた上杉治憲(鷹山)公の銅像。
現在でも米沢では絶大な人気があるようで、また実際にそれだけ米沢全体の利益を生み出した名君だと思います。生せは生る 成さねは生らぬ 何事も 生らぬは人の 生さぬ生けり などの言葉が有名。

上杉神社
 米沢城内には元々、上杉謙信公の祀堂がありましたが、明治になって上杉謙信公と上杉治憲(鷹山)公を祀るために、米沢城本丸の奥御殿跡に建てられたもの。1919(大正8)年の米沢大火で焼失し、1923(大正12)年に伊東忠太の設計で再建されたものが現在の社殿です。

上杉神社

稽照殿(けいしょうでん) 【国登録有形文化財】
 1923(大正12)年、上杉神社再建とともに伊東忠太の設計で建てられたもの。上杉謙信公と直江兼続公、上杉治憲(鷹山)公の遺品をはじめとするさまざまな宝物が収められています。

上杉謙信祀堂跡

旧上杉伯爵邸(上杉記念館) 【国登録有形文化財】
 米沢城二の丸跡に、1896(明治29)年に上杉茂憲伯爵の邸宅として、米沢出身の建築家、中條精一郎(作家の宮本百合子の父)の設計で建てられたのが始まりで、現在の建物は1919(大正8)年の米沢大火で焼失したために、再び中條精一郎の設計により1925(大正14)年築に建てられたものです。
 上写真の正門は大型の一間薬医門で,左右に袖塀が付くのが特徴。大正時代に建てられたものとは言え、武家屋敷らしい雰囲気です。

旧上杉伯爵邸(上杉記念館) 【国登録有形文化財】
 戦前は皇族の御宿所としても使われた立派な建築。戦後は進駐軍の将校クラブとして接収されましたが、返還後は1949(昭和24)年に上杉家から米沢氏へ寄贈。中央公民館として使われた後、1979(昭和54)年から上杉記念館として使用され、米沢の郷土料理などを味わうことができます。

旧上杉伯爵邸(上杉記念館) 【国登録有形文化財】
 庭園は東京の浜離宮に依って造られたもの。建物との組み合わせも、また格別です。

旧上杉伯爵邸(上杉記念館) 【国登録有形文化財】

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