高天神城〜静岡県掛川市〜
  Takatenjin Castle

▼MAP

▼アクセス
JR東海道本線掛川駅よりバス
東名掛川ICより車で15分

▼関連サイト
掛川市観光協会
 創建は諸説あって不明ですが、今川氏時代には福島氏のほか、在地の土豪である小笠原氏が城主を務めました。そして桶狭間の戦いで今川義元が戦死し、武田氏の攻撃による今川家が没落すると、城主の小笠原信興(義忠)は徳川家康に仕え、高天神城は武田と徳川の攻防最前線となります。
 そして1571(元亀2)年に武田信玄が2万5000の大軍で攻撃を仕掛けてきますが、小笠原信興はこれを撃退。高天神城は難攻不落の城としてその名を轟かせます。しかし、1574(天正2)年に武田勝頼の攻撃により落城し降伏。城は武田氏のものとなり岡部元信が城主に。

 そこで徳川家康は、付近に横須賀城を築城するなど奪還準備を進め、1581(天正9)年に再攻略に成功。岡部元信らは討死にし、高天神城は廃城となりました。その後は、山頂にある高天神社が地元の信仰をあつめ、今に至ります。上写真は搦手門方向に向かって撮影したもの。

(写真&解説:裏辺金好)

高天神城跡略図

搦手門跡
北側の搦手門(城の裏門)。まずはここから上っていきます。



三日月井戸


鐘曲輪跡
写真奥に行くと高天神社と二の丸、写真手前側が本丸です。まずは本丸方向へ。

的場曲輪跡


大河内政局石窟
 武田勝頼の攻撃による高天神城落城の際、軍監の大河内政局は軍門に下ることを潔しとせず、怒った勝頼により幽閉されました。武田方の軍監である横田尹松は義に感じ厚くもてなしたとのことですが、しかしこの状態。徳川家康が奪還したときには足掛け8年の歳月が流れ、大河内政局は歩行困難になっていたそうです。
 しかもその後、徳川家康と羽柴秀吉による小牧・長久手の戦いにおいて奮戦し、長久手にて戦死。う〜む・・・本望というべきなのでしょうか。


大河内政局石窟からの眺め
いい景色ですが、毎日ずっとこれは大変だったと思います。


大河内政局石窟からの眺め
 天気が良いと、このように富士山を見ることも出来ます。


本丸跡


御前曲輪跡
太平洋戦争前に模擬天守が造られ、そのコンクリートの土台が残っています(落雷で焼失)。


かな井戸・井戸曲輪跡
続いてここからは二の丸方向へ。




二の丸跡

曲輪跡