田中城〜静岡県藤枝市〜


○解説

 田中城は今から約500年前、今川氏の命により一色氏が築城したもので徳一色城と呼ばれていました。戦国時代の1570(元亀元)年、武田信玄が駿河へ侵攻すると徳一色城は降伏。信玄はこれを田中城と改名し、整備を行ったといわれています。

 そして武田信玄没後、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼が激しい戦いを繰り広げる中、田中城はよく防衛しますが、1582(天正10)年の武田氏滅亡直前に開城。田中城は徳川家康にとって、鷹狩りを行う際の宿泊場所として気に入られ、関が原の戦い後は徳川頼宣(家康10男)領として頻繁に利用。本丸には家康向けの御殿があったといわれています。また、家康の死因の1つとの逸話もある鯛の天ぷらの食べすぎによる腹痛は、この田中城で発生したとか。

 その後、田中城は駿府藩領や幕府領を経て、1633(寛永10)年に松平忠重が城主となると、北条氏重や酒井忠能、太田資直など様々な譜代大名が城主となります。1730(享保15)年に本多正矩が入城すると、明治維新まで本多氏7代4万石の城として続きました。

 さて、この田中城は世にも珍しい本丸を中心に、同心円状に4重に堀を巡らす、円形の縄張りを持つ城。今川氏時代に端を発するのか、武田信玄によるものなのかはハッキリしませんが、江戸時代にさらに大きく整備されたのは間違いありません。しかし残念ながら現在、宅地開発や小学校・中学校の建設で遺構の多くは失われてしまっています。 その中で、田中城の南東隅に設けられた田中城下屋敷跡には、田中城本丸櫓、茶室、仲間部屋・厩という田中城の遺構と、長楽寺村郷蔵が移築復元されています。
(写真&解説:裏辺金好)

○場所



○風景


田中城古図

二の堀
現存する数少ない田中城の遺構の1つ。

大手二の門跡


本丸御亭 【市指定有形文化財】
田中城東南隅にあったといわれる櫓で、藩主が休息したり観月するときなどに利用した建物で、下写真を見て解るとおり畳敷きの櫓です。明治維新で田中城に入った高橋泥舟の4男を養子にした、配下の村山氏が払い下げを受け、民家として利用。その後、寄贈されてこの場所に移築復元されました。


本丸御亭1階

本丸御亭2階


仲間(ちゅうげん)部屋・厩(うまや) 【市指定有形文化財】
1859(安政6)年頃築。仲間部屋と厩を1棟に仕立てた建築です。

茶室 【市指定有形文化財】
田中城下屋敷内にあった茶室だと考えられています。華奢な造りの数奇屋建築で、西側が4畳半の茶室、右側が6畳の待合です。


長楽寺村郷蔵 【市指定有形文化財】
これは田中城とは直接の関係はありませんが、下屋敷跡内に移築されています。年貢米や飢饉の際の非常米を備蓄していた蔵で、村ごとにありました。写真の建物は、明治10年ごろに払い下げられたときに往時の半分が切り取られたといわれています。


旭傳院山門
下屋敷跡近くにある旭傳院の山門は、田中城の不浄門を移築したものといわれています。

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