中城城〜沖縄県中城村〜



 標高約160mの丘陵上に造られた中城(なかぐすく)城。その創建年代は不明ですが、1429年に琉球を統一した中山王・尚巴志の家臣である護佐丸によって、三の郭と北の郭が拡張され、琉球石灰岩の城壁と、6つの郭で構成される現在の姿となったようです。
 この護佐丸は、当時勢力を拡大していた勝連城主の阿麻和利に対抗するべく、座喜味城より派遣されましたが、なんと阿麻和利の計略によって、謀反の疑いをかけられ、あろうことか国王の尚泰久は阿麻和利に中城城を攻めさせ、護佐丸は抵抗することなく自害し、ここに中城城は陥落しました。
 これによって目的を達した阿麻和利は、いよいよ反乱をおこして首里城を攻めますが敗北。勝連城での戦いにも負けて斬首されました。しかし、忠臣「護佐丸」、逆賊「阿麻和利」は作られたイメージであるとの研究もあり、両者の実像はよく解っておりません。実は両者とも、琉球王朝にとっては警戒すべき勢力だったのかもしれませんね。
 さて、この後は琉球王朝が領有し、1611年からは番所として活用。1853年にアメリカのペリー艦隊が日本に来る前に琉球王国へ上陸したとき、探検隊を派遣して中城城を調査し、「日本遠征記」の中で「要塞の資材は石灰岩であり、その石造建築は賞讃すべき構造」と評価しています。
 そして、明治維新後に日本によって廃藩置県が行われた後は、中城村役場が置かれ、引き続いて地域の行政の中心地としての役割を担いますが、1945年の沖縄戦によって建物が焼失。ですが、石垣は良好な保存状態を保ち続け、2000年12月2日、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の1つとして世界遺産に登録されました。
(写真&解説:裏辺金好)

〇地図



〇風景


中城城全図
6つの郭から構成される中城城。駐車場とつながっているのは、図面西の裏門ですが、今回は正門から見て行きます。

カンジャーガマ(鍛冶屋跡)
鍛冶を行っていた場所と伝えられますが、城向けか集落向けかは定かではありません。


正門


正門


西の郭
120mの長さを持ち、兵馬の訓練を行っていたといわれています。




一の郭に向けて登っていきます。

南の郭
聖地である久高島への遥拝所として使われた霊域。


南の郭・首里遥拝所(しゅりうとぅし)

南の郭・久高遥拝所(くだかうとぅし)

南の郭から一の郭への城門

一の郭   正殿がおかれた中城城で最も広い領域。中城城が落城した後、間切番所が建てられ、廃藩置県後は中城村役場が設置(なんと行くのに大変な役場!)。第2次世界大戦で焼失しました。


正殿跡発掘現場

正殿跡に建っていた中城村役場古写真

湾曲が美しい石垣

一の郭からの風景

一の郭全景

二の郭全景
二の郭は一の郭と共に布積みで造られた石積みが特徴。曲線の美しさは素晴らしいもの。


一の郭から二の郭への城門

二の郭から一の郭への城門を見る

三の郭全景
あいかた積み(亀甲乱れ積み)によって増築されたエリア。新城(ミーグスク)とも呼ばれます。

三の郭への入り口

裏門
ペリー一行がエジプト式と評したアーチ状の門です。


広場から三の郭城壁を見る

中城高原ホテル
 正門の先にある廃墟は、1975(昭和50)年の沖縄海洋博にあわせて1970年代前半に着工されるも、建設会社の倒産やアクセス道路が中城城の文化財保護区域に指定されたことで、建設途中で営業を終了した中城高原ホテル。元々は何と、中城公園組合が中城城の一の郭に造ろうとしていたものが、論争を巻き起こし、このような位置となったもの。廃墟として有名でしたが、2019(令和元)年にようやく解体されています。

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