浜田城は、「鴨山」「神山」と呼ばれた標高68mの小高い丘に、大坂の陣の功績により浜田に5万4000石を与えられ入封した古田重治が1620(元和6)年から築城を開始したもので、この際に丘の名前を縁起の良さから「亀山」と変えます。また、城と城下町は1623(元和9)年に完成しますが、古田氏は1648(慶応元)年、2代藩主の古田重恒の時代に「お家騒動」(古田騒動)を起こして改易されてしまいました。
その後は、松平(松井)康映が5万石して5代続いた後、本多家、松平(松井)家、越智松平家が領有し、譜代大名や親藩が配されます。そして、1866(慶応2)年の第二次長州征伐の際には、長州藩の大村益次郎が進軍してくると、藩主の松平武聡は戦わず逃走。この際に、敗残兵たちが城と城下町に火を放ったため、灰燼に帰しました。
このため、浜田城の建築物に関する遺構は残っていませんが、1967(昭和42)年に浜田県庁正門(元は津和野藩武家屋敷の門)が登城口に移築されています。
(撮影&解説:裏辺金好&ネオン)
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