浜田城〜島根県浜田市〜
  Hamada Castle
 浜田城は、「鴨山」「神山」と呼ばれた標高68mの小高い丘に、大坂の陣の功績により浜田に5万4000石を与えられ入封した古田重治が1620(元和6)年から築城を開始したもので、この際に丘の名前を縁起の良さから「亀山」と変えます。また、城と城下町は1623(元和9)年に完成しますが、古田氏は1648(慶応元)年、2代藩主の古田重恒の時代に「お家騒動」(古田騒動)を起こして改易されてしまいました。
 その後は、松平(松井)康映が5万石して5代続いた後、本多家、松平(松井)家、越智松平家が領有し、譜代大名や親藩が配されます。そして、1866(慶応2)年の第二次長州征伐の際には、長州藩の大村益次郎が進軍してくると、藩主の松平武聡は戦わず逃走。この際に、敗残兵たちが城と城下町に火を放ったため、灰燼に帰しました。
 このため、浜田城の建築物に関する遺構は残っていませんが、1967(昭和42)年に浜田県庁正門(元は津和野藩武家屋敷の門)が登城口に移築されています。
(撮影&解説:裏辺金好&ネオン)

○場所

○風景


石州浜田之図(1759〜1769年)
本多氏時代の浜田城と城下町の図面(一部)


再現図(CG)
ふもとにあった再現図。かつてはこのような姿だったそうです。

石神社にて
城近所の石神社には、浜田城主歴代の碑が建っております。


大手門跡
浜田城がある亀山のふもとは住宅地となっておりますが、一部石垣が残っている所も。


護国神社


旧浜田県庁門(津和野藩武家屋敷門)
 明治3年の浜田県設置に伴い、翌年に津和野から現在の浜田郵便局の地へ移築されたもの。浜田県が島根県に合併したあとも、那賀郡役所、浜田合同庁舎の門として昭和41年まで使われ続け、翌年に現在地へ移築されました。本来はこの場所に門はなかったようです。


三の丸の石垣


二ノ門の石垣


本丸跡への入口


天守(三重櫓)跡
ここに実質的に天守として使われた三重櫓が建っていました。


本丸にて
明治36年に建立された報国忠勇之碑があり、本来は台座の上に砲弾と砲身が鎮座。
昭和18年に供出され、現在に至るまで失われたままです。


本丸からの風景1
本丸から東側を撮影。港町となっております。


本丸からの風景2
西側も海となっております。


出丸石垣
本来は階段の上を横断する形で石垣がありましたが、明治34年〜36年に撤去され、現在の形に整備。
このため、三の丸や二の丸を経由せず、出丸経由で本丸に行くことが現在は可能です。

出丸