丹後田辺城は、室町時代に丹後守護職となった一色氏が築城されたのが起源とも言われますが詳細は不明。戦国時代に織田信長の命によって丹後を攻略した細川藤孝が丹後を与えられ、はじめは宮津城を築き本拠としますが、程なくして交通の要所である田辺の地に築城しました。これが、現在の丹後田辺城の始まりです。
関が原の戦いでは、嫡男の細川忠興に代わって、既に隠居していた細川藤孝が田辺城に篭城。西軍の軍勢を相手に戦いますが、細川藤孝が「古今和歌集」の奥義である「古今伝授」を唯一伝える者であったため、後陽成天皇が仲介に入って西軍を引き上げさせます。
江戸時代は京極氏の領有を経て、1668(寛文8)年に牧野親成(まきのちかしげ)3万5000石で入封。以後、明治維新まで続きます。
1869(明治2)年の版籍奉還の際に、紀伊田辺藩との混同を避けるために、城の別名(雅号)である舞鶴城に因んで、藩の名前を舞鶴藩とします。現在の自治体名は、これに由来しています。
(撮影:リン/解説:裏辺金好)