1513(永正10)年に伊藤武左衛門が東城という城館を築いたのが桑名城の起源だといわれています。織田信長が戦国末期にこのあたりを平定すると、滝川一益が配下を置き、さらに、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の時代には神戸信孝、天野景俊、服部一正、一柳直盛、氏家貞和、松平家乗と目まぐるしく城主が変わりました。
1595(文禄4)年、伊勢神戸城の天守閣を移し、桑名城は初めて天守閣を持つことになりました。さらに関が原の戦いの翌年、徳川家康は徳川四天王の1人、本多忠勝を入封させ、四重六層の壮大な天守閣を持つ近世城郭としての大規模な整備と、城下町の整備を合わせて行いました。
本多氏は1617(元和3)年に2代目の本多忠政が姫路藩に移封となり、代わって松平定勝が入城。1701(元禄14)年に桑名市街地の過半を焼く大火が発生し、この際に天守が焼失して以後再建されませんでした。
幕末には会津藩主の松平容保の実弟、松平定敬が桑名藩主となり、鳥羽・伏見の戦いに敗れると旧幕府軍と共に江戸に向かいます。藩主不在の桑名城は新政府軍によって焼き払われ、城跡は一部の石垣と堀を残すのみとなっています。それでも上写真のように創建当時の石垣が三の丸跡に残るなど、歴史を感じさせる風情は残っています。
(撮影&解説:裏辺金好)