1458(長禄2)年、薩摩の島津氏が日向を支配する伊東氏の南下に備えて、築城したのが実質的な始まり。島津氏の一族である新納忠続が城主となり、これ以後は鎌倉時代以来の名族である島津、伊藤の両大名が飫肥城を巡って長きに渡り攻防を繰り広げます。
1568(永禄11)年には伊東義祐が勝ち取り、次男の伊東祐兵が飫肥城主に。ところが1572(元亀3)年の木崎原の戦いで伊東氏が島津氏に大敗して没落。そして1577(天正3)年に島津氏の再度の侵攻によって飫肥城はおろか、日向一国まで失い、伊東祐兵は豊後に逃れました。
伊東祐兵はさらに羽柴秀吉に仕え、九州征伐に参加して島津氏を破ります。この功により飫肥城は伊東氏に与えられ、これ以後は明治維新まで伊東氏の領有するところになりました。
城は明治維新後にすべての建造物が破却されましたが、1978(昭和53)年に大手門が復元。さらに翌年には松尾丸の御殿が復元されました。また、城下には武家屋敷群が今も残っており、1977(昭和52)年に九州初の重要伝統的建造物群に指定されて入ます。
(撮影:リン/解説:裏辺金好)