松前城は、1600(慶長5)年から1606(慶長11)年にかけて蠣崎家(後の松前家)が築いた福山館という陣屋を発祥とし、江戸時代末期にロシア艦隊などの来航に伴う北方警備のため、江戸幕府が松前崇広に築城を命じて福山館を発展させる形で1854(安政元)年に竣工しました。
三重の天守閣をもち、江戸時代における本格的な日本式城郭の築城としては最後期のもの。1868(明治元)年、蝦夷地に政権樹立を目指す旧幕臣の榎本武揚が指揮する土方歳三(もと新選組)の攻撃を受け落城し、結局、松前城は海外勢力との戦いではなく内戦で使用されてしまいました。
榎本武揚の政権が降伏したのち、廃藩置県が実施されると城は明治政府が管理し、1875(明治8)年には天守閣などの本丸の建築を除いて、施設は解体されてしまいます。その後、1941(昭和16)年に天守、本丸御門、本丸御門東塀が当時の国宝(現在の基準で重要文化財)に指定されますが、戦後の1949(昭和24)年に松前城役場からの出火により天守と本丸御門東塀は焼失しました。
現在は、国の重要文化財に指定された本丸御門などが残るほか、天守閣は鉄筋コンクリート造で1961(昭和36)年に再建。また、2000(平成12)年に搦手二ノ門が、2002(平成14)年に天神坂門が復元されています。
(撮影・解説:裏辺金好)