鎌倉時代はじめ、祖先に紀貫之いることで有名な紀一族の紀四郎時清(伊集院時清)が築城したのが始まり。以後、4代にわたり支配しますが、血統は絶え、代わって島津家の一族で伊集院姓を称した、伊集院久兼が城主となります。
その後、伊集院家は島津宗家を凌ぐほどの勢力を誇るようになり、次第に島津宗家と対立。このため、第8代当主の伊集院煕久は、島津宗家第9代当主の島津忠国に一宇治城を攻められ、肥後へ亡命します。他の伊集院一族は島津忠国に降り、一宇治城は島津宗家が領するところとなりました。
1536(天文5)年には、一族で内紛が続く島津家の統一を目指した島津忠良・貴久親子が、伊作島津家の本拠である薩摩国西部の伊作城から、一宇治城に本拠を移します。1550(天文19)年、宗家を相続した島津貴久は内城(鹿児島市)に本拠を移したため、一宇治城は実質的に使用されなくなりましたが、この地は江戸時代でも薩摩藩内でも重要な外城とされました。
なお、1549(天文18)年には島津貴久とフランシスコ・ザビエルが一宇治城で対面し、日本で初めてキリスト教の正式な布教の許可が出ています。
また現在、城跡は城山公園と整備され一般に公開。中世山城の雰囲気を今に伝えています。
(撮影・解説:裏辺金好)
|
▼MAP
▼アクセス
JR鹿児島本線伊集院駅より徒歩
|