戦国時代、鎌倉時代からの名族・小笠原氏が1504(永正元)年に一族の武将・島立右近貞永に命じて、深志城(砦)を、造らせたのが始まりと云われています。
その後、武田信玄の占領するところとなり、整備が行われた後、武田氏の滅亡と、徳川家康の援助などで、小笠原貞慶が奪還。名を「松本城」と改めた。しかし、その息子の小笠原秀政は豊臣秀吉によって、家康と共に関東へ移封させられました。
代わって、元・徳川家康配下で、豊臣秀吉の重臣となった石川数正・康長親子が入城し、今に見る壮大な天守閣を築城。関ヶ原の戦いでは石川康長は徳川家についたが、1613(慶長18)年に改易。代わって、8万石で小笠原秀政が松本に復帰します。もっとも次男の忠真の時代に明石、さらに小倉と転封され松本と小笠原氏の縁は終わりました。
のち、戸田、松平、堀田、水野と代わり、1726(享保11)年からは戸田氏(6万石)で幕末を迎えます。そして明治維新後、破壊は免れた物の荒れ果てた松本城天守閣は、1901(明治34)年に小林有也らが保存会を設立し大修理。1913(大正2)年に工事が完了し、さらに1950(昭和25)年から1955(昭和30)年にかけても修理が行われています。
一方でその他の建物は、大半が失われたままでしたが、1990(平成2)年に黒門枡形の高麗門と袖塀が、1999(平成11)年3月には太鼓門枡形が復元されています。
(撮影&解説:裏辺金好)