小松城 〜石川県小松市〜

○解説

 小松城は元々、戦国時代に一向一揆勢が築いた城砦を始まりとし、1579(天正7)年に織田信長配下の柴田勝家が一向一揆を鎮圧した後は、村上頼勝(義明)、次いで丹羽長重の居城となります。丹羽長重は小田原征伐の功によって小松12万石を与えられ、さらに従三位、参議・加賀守に任じられたことから、小松宰相と称されますが、関が原の戦いで西軍に属して敗北したことから改易(のちに大名として復帰)。代わって加賀・越中・能登の3ヶ国を領有する大大名となった、前田利長の所領となって城代が置かれます。
 1615(元和元)年の一国一城令では廃城となりますが、1639(寛永16)年に加賀藩3代藩主である前田利常の隠居城として例外的に復活。この時に大規模な築城が行われ、広さ10万坪を超える湖沼の中に、12の島を石橋、木橋で連結した「浮城(うきじろ)」として姿が整えられました。これだけでも全国的に珍しい部類の形態ですが、さらに前田利常が趣味とした広大な「お花畑」も整備されました。さらに、天守台は五重天守閣が余裕で建つほどの規模ですが、小さな二重三階の数奇屋造りの櫓が設けられ、内部は座敷が設けられました。このように風流な建物と、湖の上に島と花畑が広がったこの空間で、前田利常は悠々自適な余生を過ごしたと云われています。その後は、小松城代・小松城番が置かれて明治時代まで存続しました。
 しかし、その後は建物は次々と払い下げ、または破却された他、堀も次々と埋め立てられ、小松市役所、芦城公園、石川県立小松高等学校などの公共用地や、住宅用地などに転用されていきました。このため、現在は小松城の栄華を偲べるものは、小松高校のグランドの隅に残る天守台と、小松市園町の来生寺寺門として移築された「鰻橋御門」程度となっています。一方、同時期に鬼門の方角に創建された小松天満宮の社殿や神門は現在も残っています。城内に造られた葭島神社も含めて、合わせてご紹介しましょう。
(撮影・解説:裏辺金好)

○場所



○風景


小松城縄張り図


小松城天守台
今も天守台周辺には石垣が多少残っています。写真奥には高校のグラウンドが広がっています。

芦城公園

「ろじょうこうえん」と読み、小松城三の丸跡に整備されたもの。

前田利常像(芦城公園にて)
前田利家の4男で、江戸幕府との緊張感のある関係を乗り切りながら加賀藩の基礎固めに尽力。現在も高い評価を受ける八条宮別業(桂離宮)の造営に尽力したのを契機に京風文化を取り入れ、金沢文化を開花させています。小松城も前田利常が理想とした文化の結晶として造られたことでしょう。その面影が殆ど伝わらなかったことは大変残念です。


鰻橋御門(現・来生寺寺門) 【小松市指定文化財】
小松城の遺構で唯一残る城門。

来生寺経蔵  
ちなみに、来生寺の経蔵は1825(文政8)年に建てられたもの。八角形廻転式の書棚が収められています。


小松天満宮
 
 
小松天満宮は、小松城と梯川(かけはしがわ)を挟んで東側にある神社で、前田利常が1657(明暦3)年に創建したもの。小松城天守閣から鬼門の方角に位置しています。加賀藩お抱えの名工、山上善右衛門によって整備され、現在も神門、拝殿、石の間、幣殿、本殿が残っています。いずれも国指定重要文化財に指定。ちなみに、山上善右衛門の作品としては富山県高岡市の瑞龍寺仏殿(国宝)も有名です。


小松天満宮神門 【国指定重要文化財】
1657(明暦3)年築。


小松天満宮 本殿、石の間、幣殿及び拝殿  【国指定重要文化財】
1657(明暦3)年築。

小松天満宮十五重石塔 【小松市指定文化財】
こちらも創建時から残るもので、珍しい十五重の石塔です。


葭島神社(よししまじんじゃ)

小松天満宮とほぼ向かいの位置、小松城側にある神社。やはり前田利常によって創建されたものです。ちなみに葭島は小松城の浮島の1つ。

葭島神社拝殿/葭島神社本殿
 【石川県指定文化財】
拝殿は文化財指定されていませんが、山上善右衛門一門の建造と云われます。また、文化財指定されている本殿は風化を防ぐために新しい社殿の内部に収められ外から見ることは出来ませんが、江戸時代後半の建造と推定されています。

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