山中城 〜静岡県三島市〜
○解説
小田原城を守る西の拠点として、東海道を城内に取り込む形で、永禄年間(1558〜70年)に北條氏康によって築城されたもの。1590(天正18)年の豊臣秀吉による侵攻を前に、その前年から改修が行われますが、完成することなく、7万の豊臣軍に対して北條氏勝、松田康長、松田康郷、間宮康俊らは僅か4000人の軍勢で迎撃。圧倒的な軍事力を前に、僅か半日で落城。北條氏勝と松田康郷は城を脱出して徳川家に仕えますが、松田康長、間宮康俊と多くの城兵は戦死しました。これ以降、山中城が使われることはありませんでしたが、1930(昭和5)年に国の史跡となり、1973(昭和48)年から三島市によって公園化としての整備と、学術的な調査を実施。後北条氏ならではの畝掘や障子掘など、独特な構造が明確に解るようになっています。また、旧東海道の石畳も復元されています。
(撮影・解説:裏辺金好)
○場所
○風景
城内の全体図
元々から、三の丸と岱崎出丸の間に(旧)東海道が通っていますが、さらに現在は東海道を拡幅した国道1号線も貫通しています。まずは、三の丸から本丸に向けて見ていきましょう。
三の丸跡の堀
往時は深さ8mもあったそうで、幅は最大30m、長さ180mありました。
田尻の池
西側に馬舎があったと伝えられていることから、軍馬の飲料水として使われていたと考えられています。
箱井戸跡
田尻の池と土塁で分離され、一段高い場所にあります。城兵の飲料水として使ったのではないかと考えらえています。
元西櫓下の堀
それでは、西の丸に向けて歩いていきます。
土橋
西の丸畝掘
五本の畝によって区画されています。畝の高さは約2mで、さらに西の丸へ侵入するには約9mの土塁をよじ登る必要があります。
西の丸障子掘
西の丸と西櫓(角馬出)の間は、障子のように区画した畝掘が見られます。
西櫓跡の掘立柱建物跡
南西の区画で発見されたもので、何の用途の建物であったかは不明です。
山中城跡の碑
帯曲輪に1935(昭和10)年に建立されたもの。
左が西の丸、右が西櫓跡
西の丸
3400uを持つ大きな曲輪。西端(写真奥)に盛土して見張り台を構築しているほか、全体に東側へ傾斜させることによって、溜池へ排水する構造だそうです。
西の丸見張り台
元西櫓跡
西の丸と二の丸の間に位置し、周囲を空堀で囲んだ約640uの小規模な曲輪です。
二の丸
発掘調査をもとに架け橋も復元されています。
二の丸櫓台
畝掘
この辺りにも畝掘が見られます。
本丸跡
1740uの面積を持ち、南側は兵糧庫に接しています。また、盛土で2m程度の段を造り、2段の平坦面で構成されています。
天守櫓跡
植樹により柱跡が解らなくなっていたため、どのような施設があったのかは不明です。
北の丸
北の丸堀
宗閑寺と武将の墓
宗閑寺は浄土宗の寺院で、静岡市にある華陽院の末寺。北條方の松田康長、間宮康俊、豊臣方の重臣で戦死した一柳(ひとつやなぎ)直末などの墓が敵味方の区別なく並んでいます。ちなみに、間宮康俊の娘お久の方が開基したと伝わります。
御馬場曲輪
続いて国道1号線(東海道)を挟んで反対側へ。
出丸馬場堀
岱崎出丸
2万400uの広大な曲輪。間宮康俊らが守り、壮絶な戦死を遂げたといわれています。
構築途中の曲輪跡
出丸を増築すべく完成することなく豊臣軍との戦いに挑むことになった場所。
すり鉢曲輪見張り台
三島方面まで一望することが出来ました。
すり鉢曲輪見張り台
山中城出丸の最先端で、中央部が窪んでいます。
岱崎出丸一の堀
すり鉢曲輪から続き、見事な畝掘です。構造がはっきりと解ります。
箱根旧街道
東海道のうち、小田原宿と三島宿を結ぶ箱根八里(約32km)の区間。スリップ防止のために、当初は竹が敷かれましたが、1680(延宝8)年からは石畳になりました。1994(平成6)年から、腰巻地区の約350mが、江戸時代の姿に可能な限り復元整備されました。