根城〜青森県八戸市〜
○解説
八戸市にある根城(ねじょう)は、南北朝時代の1334(建武元)年に南朝方の武将である南部師行が築城し、1627(寛永4)年に現在の岩手県遠野市へ転封されるまでの約300年間、根城南部氏(八戸氏)によって使われた中世の城です。南部師行は後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて陸奥国に下向した北畠顕家に従い、甲斐国からやって来たもので、馬淵川南岸の河岸段丘上に築城し、南朝方の根本となる城という意味で根城と名づけました。しかし、1338年(南朝:延元3年、北朝:暦応元年)に南部師行は北畠顕家とともに石津(※現在の大阪府堺市)で北朝方の高師直と交戦して戦死(石津の戦い)。このため、弟の政長が家督を継ぎ引き続き南朝方として戦いますが、南朝方の勢力退潮は如何ともしがたく、根城南部氏の勢力も衰えます。
1393(明徳4)年、南部政長の孫である南部政光は、前年に南北朝が合一したこともあり、同族で北朝方だった三戸南部氏の仲介で戦いを終結させ、本領であった甲斐から根城へ拠点を完全に移し、城を大規模に拡張したと考えられています。さらに、1590(天正18)年に三戸南部氏の当主である南部信直が、小田原攻めを行っていた豊臣秀吉の元に帰参した際に、根城南部氏は三戸南部氏(盛岡南部氏)の支配下に置かれます。そして、1592(天正12)年に豊臣秀吉が奥州諸城の破却を命じたいことから、根城の防御機能を取り払い、館だけが引き続き使われました。
1627(寛永4)年、根城南部氏の当主であった八戸直秀が、盛岡藩主の南部利直の命によって遠野城(岩手県遠野市)に移封されたことにより、廃城となります。八戸の地は盛岡南部氏の一族が治めることになり、新たに八戸城が築城されています。
(撮影&解説:裏辺金好)
○場所
○風景
復元図
本丸・中館・東善寺館・岡前舘・沢里館の5つの館(曲輪)から形成される連郭式の平山城。現在もその姿をよく留めていますが、このうち史跡として整備されているのは本丸・中館・東善寺館。あとは住宅が建っています。
南部師行像
南部氏の系譜
盛岡藩主となった南部氏と、根城の南部氏の関係性。お互いに甲斐から移住していますが、江戸時代になると相当な遠戚になっていますね。
八戸城東門 【八戸市指定文化財】
1856(安政6)年に大嵐で倒れたことから、八戸藩の家臣である木幡氏へ払い下げられていたものを移築。現在は史跡への入り口となっています。伝承によれば、元々は根城のものであったとも云われますが、真相やいかに。
東善寺館
東善寺館の堀
城の東側を守るV字型の薬研堀
中館(左)と東善寺館(右)の間の堀
復元ではなだらかになっていますが、本来はV字型の薬研堀で、もっと深いもの。現在でも1mほど掘ると地下水が湧くことから、当時も堀底には水があったのではと考えられています。
馬屋
発掘調査に基づき、中舘に復元されたもの。中舘は根城南部氏の重臣である、中舘氏の屋敷があったと云われます。
木橋
本丸への通路。手すりは安全のために取り付けたもので、当時は存在しないものです。
東門
本丸への正式な入り口
主殿
主殿
正月十一日の儀式を再現しています。
納屋
米屋味噌を入れていたと考えられています。
納屋
奥御殿跡
板蔵
鍛冶工房
野鍛冶場
常御殿
工房
西門
番所
西門からの通行者を監視する場所
祭壇跡(推定)
物見
中馬屋
下馬屋