八戸城〜青森県八戸市


○解説

 南北朝時代より、八戸の地は根城を根拠とする根城南部氏(八戸氏)が支配してきましたが、次第に遠戚である三戸南部氏が台頭し、戦国時代末期に根城南部氏もその支配下に組み込まれます。

 そして三戸南部氏は盛岡藩主となり、初代藩主となった南部利直は1627(寛永4)年、根城南部氏を遠野城(鍋倉城とも/岩手県遠野市)へ転封。八戸を直接支配するようになり、新たに八戸城と城下町の整備に取り掛かります。元々は根城南部氏の支城である中舘があった場所と云われますが、正確なことは分かっていません。

 さらに1664(寛文4)年、南部利直の三男で第2代藩主の南部重直が世継ぎを残さないまま世を去ると、幕府は利直五男の南部重信に盛岡藩8万石、七男の南部直房に八戸藩2万石を分割相続させ、八戸藩が成立。そして、明治維新によって廃城となり、用地は公共施設や住宅等へ転用されていきますが、本丸周辺は三八城公園、として整備されています。また、八戸城角御殿表門は二の丸の一角に建てられた南部会館の表門として現存。さらに、幕末に家臣へ払い下げられた八戸城東門は八戸市根城史跡の広場へ移築されて現存しています。
(撮影&解説:裏辺金好)

○場所



○風景


八戸城絵図
八戸城は本丸と二の丸と、その南に広がる城下町で形成されています。国鉄八戸線、八戸駅の記載があることから相当古い看板です。


南部直房像


本丸跡
三八城公園として整備されています。ちなみに三八城とは、三戸郡の「三」、八戸城の「八」、「城」の意味だとか。


三八城神社
現在の三八城公園内へ、廃藩置県後に建てられたもの。




角御殿表門 【青森県重宝】
1797(寛政9)年築。桁行3間の大棟門で、寛政年間に八戸城の角御殿(すみごてん)であった場所へ居住を命じられた、御物頭の煙山冶部右衛門によって建てられました。「八戸城に相応しい門を」という命令だった一方で、資金繰りの苦しさが八戸藩日記に載っているそうです。

この場所は明治維新後、藩主が知藩事となった際に政務を取ったことから、御内務と呼ばれたほか、その後は南部家の私邸として使われてきました。1950(昭和25)年に三戸郡町村会のものとなり集会所となり、1972(昭和47)年に八戸市へ所有権が移り、八戸市文化教養センター 南部会館となっています。

旧八戸城東門 【八戸市指定文化財】
1856(安政6)年に大嵐で倒れたことから、八戸藩の家臣である木幡氏へ払い下げられていたものを移築。現在は史跡への入り口となっています。伝承によれば、元々は根城のものであったとも云われますが、真相やいかに。


おがみ神社
記録上から、少なくとも900年前から存在している神社で、八戸藩の立藩にあたって八戸城二の丸に遷座。八戸藩総鎮守として規模の拡張を行いました。

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