秋田城〜秋田県秋田市〜


○解説

 秋田城は、奈良時代から平安時代にかけて出羽国に設置された古代城柵。733(天平5)年に、出羽柵(いではのき/でわのさく)が庄内地方(※現在の山形県内。詳細な場所は不明)から、現位置へ移されたことに始まり、760(天平宝字4)年頃に秋田城と呼ばれるようになりました。
 秋田城は蝦夷の支配を目的とした軍事的拠点や、地域の行政機能としての役割のほか、発掘調査からは中国東北部にあった渤海国(698〜926)との交流が伺えるため、渤海使や北方民族との外交施設としての役割を持っていたという説もあります。
 878(元慶2)年には、朝廷の苛政に対して夷俘(蝦夷)が反乱を起こして秋田城を一時占拠(元慶の乱)。間もなく乱の鎮圧と懐柔が行われますが、939(天慶2)年にも夷俘(蝦夷)が反乱を起こして、秋田城と交戦したといわれます。10世紀後半には古代城柵としての機能は失ったとみられます。
 1998(平成10)年には発掘調査に基づき、外郭東門と築地塀の復元などが行われたほか、2016(平成28)年には秋田城跡歴史資料館が開館しています。
(写真&解説:裏辺金好)

○場所



○風景



秋田城復元模型
中央に政庁、その外周を築地塀が取り囲み、写真手前側には古代沼が広がる鵜ノ木地区があります。


政庁第1期(733〜770年頃復元模型)


政庁第2期(770〜800年頃復元模型)
北半分の築地塀が崩壊したことに伴い造りなおしたほか、南半分は材木列塀へ改築。また、正殿をほぼ同位置で建て替えたほか、新たに北西建物が建築されています。


政庁第3期(800年頃〜830年頃復元模型)
北半分の築地塀をやめて等間隔に柱を並べ、その間を横材でふさぐ一本柱列塀へ改修。また、東門を中央より南側へ移設の上で棟門から八脚門へ仕様を変更しています。

政庁(正殿跡)
出羽国の行政や宴、儀式などが行われていました。


政庁(北東建物跡)
5回建て替えられた跡が見つかっています。


政庁(東門跡)

域内東西大路
政庁から外郭東門へ至り、外角外側までまっすぐ伸びていました。奈良時代には幅員12m、平安時代には幅員9mあったようです。

域内東西大路
政庁から外郭東門へ至り、外角外側までまっすぐ伸びていました。奈良時代には幅員12m、平安時代には幅員9mあったようです。なお、敷石などが発見されていないので土の道路であったと思われます。


外郭東門
奈良時代の姿で復元したもの。



水洗トイレ跡
秋田城の城外南東側の鵜ノ木地区、寺院兼客館(迎賓館)と考えられる建物群の北側にあたる沼地の岸辺にあります。




水洗トイレ跡
掘立柱建物、三基の便槽、木樋、沈殿槽、目隠し塀から成ります。糞べらも展示。

水洗トイレ復元模型
排泄物は沈殿槽にいったん貯まり、上澄みだけが沼地に流れるという画期的な構造。


鵜ノ木地区建物群
建物の配置からみて、寺院であったとも考えられています。

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