鴫山城/田島陣屋〜福島県南会津町〜


○解説

 鴫山城は南会津町田島地区にそびえる愛宕山(標高750m)に築城されたもので、その創建年代は不明ですが、南北朝時代に長沼氏によって築城されたと推測されています。1459(長禄3)年に山内越中と白川氏が「南山しき山の城」を攻め落としたことが記されており、この頃には存在していたと考えられています。
 長沼氏はその後、黒川城(のちの若松城)の蘆名氏と戦いを繰り返し、16世紀半ばには芦名氏に臣従します。1589(天正17)年に蘆名義広が摺上原(すりあげはら)の戦いで、伊達政宗に敗れて滅亡すると、長沼盛秀は伊達政宗に臣従。1591(天正19)年に豊臣秀吉によって伊達政宗が仙台に国替えとなると、これに従い長沼氏は鴫山城を去りました。
 その後は蒲生氏郷の家臣の小倉孫作、次いで上杉景勝の重臣・直江兼続の弟の大国実頼が入城。さらに関ヶ原の戦いの後に蒲生秀行が会津領主となると、再び小倉孫作が城代をつとめました。続いて、加藤嘉明が1627(寛永4)年に会津藩主となると、鴫山城は廃城になりました。
 なお、会津田島の地は、加藤氏が御家騒動で改易となり、徳川家光の弟である保科正之が会津藩主となった際に天領(幕府直轄地)となり、田島陣屋が置かれています。こちらもご紹介します。
(写真:デューク/解説:裏辺金好)

○場所



○風景


曲輪の配置図


大門跡
鴫山城の正門で追手門とも。古い絵図によると、二階建ての楼門があったようです。


侍屋敷

上千畳(うわせんじょう)
いわゆる本丸で、城主の居館などが置かれた場所。発掘調査の結果、書院建築3棟の礎石や枯山水庭園の敷石などが発見されました。また、東端からは湧水が産出しています。



御平庭
この場合の「庭」は館の軒先の空間を意味し、領内からの目安、注進などを受ける施設がありました。

空堀

外郭遺構
この場合の「庭」は館の軒先の空間を意味し、領内からの目安、注進などを受ける施設がありました。

愛宕神社仁王門
1884(天保15)年築。愛宕神社は鴫山城の最高峰に位置します。


愛宕神社仁王立像 【南会津町指定有形文化財】
仁王門再建と同じころの制作と推定。

田島陣屋跡
これといった遺構はなく、石碑のみが歴史をつたえる田島陣屋跡。鴫山城の北東直ぐ近くにあり、江戸時代を通じて3回位置をずらして建て直されました。跡地は現在、南会津町役場となっています。撮影時は役場改築に伴い、旧庁舎が解体されたところでスッキリした雰囲気。

旧・南会津郡役所 【福島県指定重要文化財】
1885(明治18)年築。扇形のステンドグラスなどが特徴。創建当時の郡長室が復元されているほか、鴫山城の出土品や、享保5年の初冬に発生した農民一揆「南山御蔵入騒動」の資料なども展示されています。

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