掛川城〜静岡県掛川市〜


○解説

 応永年間(1394〜1427年)に、地元の豪族・鶴見氏が築城したのが起源。1469(文明元)年頃、駿河国を支配する大名・今川義忠が、家臣の朝比奈泰煕(あさひな やすひろ)に本格的に築城させたのが、今の掛川城の前身です。そして桶狭間の戦いで時の当主、今川義元を失った今川家は、徳川家康と武田信玄によって衰退し、泰煕から3代後の朝比奈泰朝は、掛川城へ落ち延びた当主の今川氏真と共に徳川家康へ降伏して退去。掛川城は徳川家の重臣・石川家成の手に渡りました。

 その徳川家康も、豊臣秀吉によって江戸・関東へ移封されます。かわって、妻の内助の功で有名な山内一豊が城主と成り、現在見られる掛川城と街を整備しました。そして関ヶ原の合戦以降、山内一豊は加増を受けて高知へ転封。その後、掛川へは徳川家譜代の家臣が次々と配置・転封され 最終的には1746年、江戸城を築城した太田道灌の一族・太田資俊(すけとし)が入城して、以後は明治維新まで7代続きました。

 1854(安政元)年の大地震により天守閣など城内の建物が失われ、二の丸御殿は再建されましたが天守閣は再建されませんでした。 しかし、平成に入ってから市民の老婆が「何かに使ってくれ」と1億円を寄付。掛川城天守閣を木造で再現することになり、さらに数億の寄付と、その他の市民からの寄付など、まさに市民の力で天守閣を復元。1994(平成6)年に完成しました。
(写真:裏辺金好)

○場所



○風景


掛川城太鼓櫓(左)・天守閣(右)

大手門
復元された掛川城の大手門。区画整理に伴い、本来の位置から50m北に移設されての復元です。

番所 【市指定文化財】
 こちらは大手門に付属していた番所。民家に払い下げられて現存していたものを、移築したもので、もちろん大手門と同じく50m北側に移築されましたが、大手門との位置関係は同じです。


天守と大手門


四足門と天守

三日月掘
本丸の四足門脇にある三日月形の堀。往時の深さは深さは8mもあったそうです。


掛川城復元模型
実際にはもっと建物があったと思いますが、だいたいの形は解ります。

太鼓櫓
三の丸にあった櫓ですが、本丸の荒和布(あらめ)櫓があった場所に移築されました。








天守閣内部
木造で復元されており、木の組み方などは必見。


二の丸御殿 【国指定重要文化財】
 1861(文久元)年築。地震により倒壊した御殿に代わって再建された書院造の建築で、城主居室と政庁機能を有していました。現存する御殿建築は、二条城、川越城、高知城がほかに残るのみ。大変貴重です。


二の丸御殿 【国指定重要文化財】


二の丸御殿 三の間
藩主や家老に用件を伝える場所。要件によっては次の間へ通されます。


二の丸御殿 次の間
藩主と謁見できる身分の高い者のみが通された場所。


御所院 上の間
もちろん次の間の奥は、藩主が政務をつかさどった場所。


小書院
御所院上の間の裏側は藩主が私的にくつろいだ場所です。

御用部屋
藩主の身辺警護をする役人が控えていた間。


吟味奉行
藩内の訴訟や事件、経理関係の吟味をした吟味奉行の部屋。家臣たちが仕事をした部屋は、このように板張りの場所が大半。随分と雰囲気が異なります。


御用人部屋


張役所


御談の間


油山寺山門 【国指定重要文化財】
袋井市の油山寺の山門は大手二之門を移築したもので、1659(万治2)年、掛川藩主の井伊直好時代の建築。江戸時代初期の城郭建築の遺構として非常に貴重な現存例です。

龍華院大猷院霊屋 【県指定文化財】
 掛川城本丸から少し北東へ歩いた場所にある龍華院。上写真の建物は1656(明暦2)年、掛川藩主の北条氏重が徳川家光を祀るために建てさせたものを起源とし、現在の建物は1818(文化15)年の火災による焼失後、1822(文政5)年に掛川藩主の太田資始により再建されたものです。  
 ちなみに、この場所は16世紀初頭に今川氏親が、重臣の朝比奈泰煕に造らせた掛川城本曲輪があった場所。

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