三崎城・海南神社とその周辺〜神奈川県三浦市〜


○解説

 三崎城の築城年代は不明ですが、この地を治める平安時代末期以来の武家、三浦氏の城として三崎港を臨む高台の、現在の三浦市役所と旧三崎中学校周辺に築かれました。

 1516(永正13)年に北方3kmの位置にある新井城が伊勢宗瑞(北条早雲)によって落城し、三浦道寸(義同)らが戦死すると三崎城も落城。三浦一族の出口茂忠など一部の城兵は城ヶ島に逃れて抵抗しますが降伏し、三浦十人衆として北条支配下に組み込まれました。そして三崎城は北条家による水軍の拠点として改修され、浦賀城と共に江戸湾防備の要となります。

 その後、安房の里見氏による攻撃が頻繁に繰り返され、三浦半島は北条氏と里見氏の攻防の舞台に。1567年に北条氏政は伊豆韮山城主の北条氏規に三崎城主を兼任させています。1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が敗北したことに伴い、廃城となりました。現在は三浦市役所周辺に土塁が残ります。

 なお、余談ですが出口茂忠の孫である出口茂正(三浦浄心)は北条家滅亡後に江戸に出て、「北条五代記」という仮名草子・軍記物語を著しています。

 さて、三崎城周辺には三浦一族ゆかりの寺社が数多く残ります。中でも三崎城のふもとに位置する海南神社は982(天元5)年に現在地へ社殿が造営された相模国三浦総鎮守。九州太宰少弐であった藤原広嗣の五代の孫に当たる、藤原資盈公を御祭神とします。

 源頼朝が挙兵した際、三浦義明は氏神である当社参拝の折、源平の争覇を占い、白と赤の狐が闘い、源氏の旗の色と同じ白い狐が勝ったことから源頼朝側に加担したと伝えられます。
 (撮影:裏辺金好)

○場所



○三崎城の風景


三崎城の縄張り


三浦市役所に向かう道路が大手虎口跡

土塁


三浦市福祉会館跡が本丸


青少年会館跡周辺にも土塁が残ります。



搦手口跡

○海南神社の風景






御神木 【三浦市天然記念物】
源頼朝が植えたと伝わる大銀杏。樹齢約800年です。

○周辺の風景


三崎港周辺は古い町並みが残ります。多くは関東大震災後に再建されたもののようで、上写真左の山田屋酒店は1927(昭和2)年築。



三崎館本店
昭和初期の建築(戦後の改修あり)。三崎館本店は1908(明治41)年創業の割烹旅館で、PS2のゲーム「トロと休日」でトロが宿泊したお部屋もあります。


溝川酒店

三崎昭和館
三崎下町に伝わる伝統芸能チャッキラコに関する資料や、昭和の懐かしい生活風景を紹介。元々は旧米販売店宅でした。

旧山田金物店(現・三崎港 古民家の旅宿)

岩野薬局倉庫

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