長篠城〜愛知県新城市〜


○解説

 長篠城は1508(永正5)年、駿河の今川氏親に従った菅沼元成が豊川と宇連川が合流する断崖上へ築城したもの。
 徳川家康が今川氏から独立すると、菅沼元成の玄孫である菅沼正貞は家康に臣従しますが、1571(元亀2)年に武田信玄が三河に侵攻した際、武田方の天野景貫に攻められ抗戦。本家である本家・田峯菅沼氏の説得を受けて降伏します。
 1573(元亀4)年には徳川家康が武田信玄の死去を受けて長篠城を包囲。菅沼正貞は逃れ、家康は武田氏に対する備えの城として長篠城を再整備します。
 1575(天正3)年、今度は武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が1万5000人の軍勢を率い、徳川方の奥平信昌が500人で守る長篠城を攻撃。なお、この際に単身で長篠城を脱出し、岡崎城の徳川家康に援軍を求めることに成功した鳥居強右衛門(とりい すねえもん)は、長篠城に戻る際に武田軍に捕らえられますが、「援軍は来ない、降伏した方が良い」と言えば命は助けるとの武田勝頼の命に抵抗し、「援軍が来る。今少しの辛抱だ」と叫んで味方を鼓舞したため、磔刑に処せられたという逸話があります。
 結果として武田軍は織田・徳川連合軍に長篠の戦いで敗北したため、長篠城は辛くも持ちこたえました。しかし、損壊激しく翌年に奥平信昌は新城城を築城し、長篠城は廃城となりました。
 現在は本丸周辺の土塁が残るほか、JR飯田線によって本丸と分断されていますが野牛曲輪が残っています。
(写真:裏辺金好)

○場所



○風景


長篠城の縄張

長篠城址史跡保存館
本丸の北側、帯曲輪跡に建てられています。

本丸の土塁

本丸


本丸と野牛曲輪の間を通るJR飯田線

野牛曲輪
写真奥の山に武田軍が陣を構えました。

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