長浜城・大通寺と古い町並み〜滋賀県長浜市〜


○解説

 1603(慶長8)年、徳川家の譜代大名・井伊直継・直孝父子が築城させた、井伊家代々の城で、石田三成の居城であった佐和山城に代わって、新たなこの地域の拠点となりました。ちなみに歴代藩主では、桜田門外の変で暗殺された、大老・井伊直弼が有名。

 明治天皇が保存の命令を出した事で、解体を免れたため、城内には多くの建物が残っているのが特徴で、天守閣は姫路城などと比べると小さいものの、切妻破風、千鳥破風、唐破風など、様々な破風を巧みに組み合わせた技巧に富んだ形状です。

 現在、天守、附櫓(つけやぐら)、多聞櫓が国宝に、太鼓門櫓及び続櫓、天秤(てんびん)櫓、西の丸三重櫓、続櫓、二の丸佐和口多聞櫓、馬屋の計五棟が重要文化財に指定。また、城の北側には玄宮園・楽々園という井伊家の下屋敷に造られた大名庭園が残り、これらは「玄宮楽々園」として国の名勝に指定。さらに、彦根城博物館として表御殿が復元されています(一部木造で忠実に再現)。

 彦根は、城郭がほぼ完全に残っている上、古い街並みが広範囲にわたって、今も当たり前のように使われています。新幹線の米原駅より僅か1駅と、交通のアクセスも至便で、一度は見ておきたい場所。
(撮影・解説:裏辺金好)

○地図



○風景



佐和口多聞櫓 【国指定重要文化財】
左側は1771(明和8)年に再建されたもので、右側は1960(昭和35)年に復元されたもの。
かつては写真中央の場所に、櫓門がありましたが明治元年に解体されています。


佐和口多聞櫓
写真手前側は前述のとおり、1960(昭和35)年に復元。


埋木舎(うもれぎのや)
佐和口多聞櫓の向かい側にある屋敷で、1759(宝暦9)年頃の建築。


埋木舎(うもれぎのや)
第11代藩主・井伊直中の十四男として生まれた井伊直弼が、1831(天保2)年から15年過ごした屋敷です。

埋木舎(うもれぎのや)
 十四男だった井伊直弼には藩主の座を望むべくもなく、他家への養子の話も無く、自分は「(世に出ることもない)埋もれ木である」ということで、この名前を屋敷に付けました。

埋木舎(うもれぎのや)
 もっとも井伊直弼はご承知のとおり、彦根藩主となったばかりか、幕府の大老にまで上り詰めます。しかし、桜田門外の変によって志半ばで暗殺されてしまいました。


旧・池田屋敷長屋門 【彦根市指定文化財】
 埋木舎の近く、同じ通り沿いにある長屋門。桁行10間、梁間2間の入母屋造・桟瓦葺の建物です。池田家は元々、伊賀忍者として初代の井伊直政に取り立てられ、大坂冬の陣・夏の陣にも従軍。江戸中期頃からこの屋敷を拝領した、中堅藩士です。最盛期は250石、幕末期は180石でした。なお、この長屋門がある尾末町一帯には、中級武家屋敷が広がっていました。



馬屋 【国指定重要文化財】
佐和口多聞櫓から内側に入ると、早速見えてくる馬屋。藩主などの馬を常備した場所で、貴重な現存例。


馬屋 【国指定重要文化財】

表門跡
では、彦根城天守に向けて登ってみましょう。


表御殿(彦根城博物館)
まずは博物館として復元された表御殿が見えてきます。


天秤櫓への道

天秤櫓 【国指定重要文化財】
真偽不明ながら長浜城大手門を移築したものとも伝わります。一旦、櫓門の下を通ってぐるりと回って、櫓へ続く橋に向かうことになります。


天秤櫓 【国指定重要文化財】


鐘の丸
天秤櫓前に広がる郭。かつては鐘楼がありましたが、城下北方に音色が届かなかったため、太鼓丸に移築。
さらに大広間などの建物がありましたが、1732(享保17)年に彦根藩江戸屋敷の広間として移築されています。


太鼓門櫓への道


佐和山城方向を臨む


太鼓門櫓 【国指定重要文化財】
築城時に別の城から縮小の上で移築したもの(※解体修理で判明)。元々どこにあったのかは不明です。


彦根城天守閣 【国宝】
1607(慶長12)年築。太鼓門櫓などと同様に、築城時から未だに現存する天守閣。
大津城の天守閣を移築したものと考えられ、5階4重から3階3重に縮小されたことが判明しています。


彦根城天守閣 【国宝】

彦根城天守閣 【国宝】

彦根城天守閣 【国宝】


西の丸三重櫓 【国指定重要文化財】
本丸隣接の西の丸西北隅に位置。築城時に別の城から移築されたもので、
小谷城の天守という説もありますが、真偽不明です。


西の丸三重櫓 【国指定重要文化財】
では、ここから麓に下りて城の東側に出ます。


内堀

ひこにゃん
元祖「ゆるキャラ」。最近は「くまモン」なども台頭していますが、人気は相変わらず抜群!
このように彦根城天守閣前でパフォーマンスが行われています。


ひこにゃん

ひこにゃん

○楽々園

 楽々園は、玄宮園と一緒に、彦根藩4代藩主井伊直興により建立された彦根藩の下屋敷「槻(けやき )御殿」を形成していました。1812(文化9)年の第11代藩主井伊直中の隠居を契機に、奥書院をはじめ大規模な増改築が行なわれました。


現在は僅かに奥書院や地震の間など、一部のみが現存しています。
(※赤く塗られているのは修理箇所を示したもので、現存部の全てではありません)


奥書院鎖口

奥書院

奥書院

地震の間(お茶座敷)  地震発生時を考慮して建築地盤を強固なものとし、屋根を軽いこけら葺きにしたり、土壁を比較的少なくしているのが特徴。


庭園
写真奥は、これから御紹介する玄宮園です。

○玄宮園

 玄宮園は、楽々園と一緒に、彦根藩4代藩主井伊直興により建立された彦根藩の下屋敷「槻(けやき )御殿」を形成していた場所で、現在は庭園部分一体を指しています。彦根城天守閣が良く見える場所で、景観は抜群!

中国の宮廷に付属した庭園を「玄宮」ということから、命名されたと考えられています。



↑ PAGE TOP