小山城(祇園城)/小山御殿〜栃木県小山市〜
○解説
小山城は、鎌倉時代から戦国時代まで勢力を誇った小山氏の城郭の1つ。小山氏の館はいくつか存在しますが、この小山城はそのうち「祇園城(館)」と呼ばれていた場所と推測されます。正確な築所年は不明ですが、文献に登場するのは14世紀後半からだとか。その小山氏は意外と不運で、1382(永徳2)年に11代小山義政が、鎌倉公方の足利氏満と戦って敗れ自害し、同族の結城泰朝が小山氏を継ぎ復興。戦国時代には、小山秀綱が北条氏照と戦い敗北し追放されます(この時、北条氏照は小山城を修築)。
その後、小山秀綱は北条傘下に入り小山城に戻りますが、1590(天正18)年の豊臣秀吉による小田原征伐に際し、北条方として参陣。結果、戦後に改易されてしまいました。
1600(慶長5)年には、上杉景勝を討伐するために会津(福島県)に向かう途中の徳川家康が本陣を置きます。この際、石田三成挙兵の報が入り、家康は諸将を集め、上杉景勝を討つか、西へ向かい石田三成を討つか軍議に諮り、石田三成を討つことに。これを小山評定といいます。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康腹心の本多正純が3万石で入り、小山城の縄張りを完成させます。しかし、1619(元和5)年に本多正純は宇都宮に転封となり、小山城は廃城となりました。その後、かつて小山評定が開かれたと考えられる場所(小山城御殿曲輪)に、徳川将軍家が日光社参する際の休憩・宿泊場所として小山御殿が建築されました。
小山御殿は周囲に堀を巡らせ、二重の土塁と16ヶ所の御番所を設けた厳重な構造でしたが、日光社参は1633(寛文3)年に4代将軍の徳川家綱が行って以降、財政難で1728(享保13)年に徳川吉宗が再開するまで中断。その間に大風で御殿の被害が出たため、1682(天和2)年に古河藩によって解体されました。
現在の小山城は、内堀などがよく残り往時の面影を残しているほか、小山御殿は平面で建物の場所が示されています。
(写真&解説:裏辺金好)
○場所
○風景
小山城絵図による縄張り
小山城 本丸跡
小山城 塚田曲輪跡
小山城 本祇園曲輪跡
小山城 上段曲輪跡
小山御殿跡
小山御殿跡(建物跡平面表示)
小山御殿復元図
小山評定跡