小倉城が最初に築城された時期は不明ですが、文永年間(1264〜74年)、土豪の緒方惟重が”勝山城””勝野城”と呼ばれる小城を作ったのが始まりと言われています。
その後、関門海峡の要所として大友、小弐、大内、毛利氏が争奪戦を繰り広げ、関ヶ原の戦い後すぐに細川忠興が約40万石で入城。当初は中津城を本拠としましたが手狭なため、現在見る小倉城を築城させました。
その後、細川忠利の時に熊本に転封となったため、かわって譜代大名・小笠原忠真が播州播磨より15万石で入封。これ以後、代々小笠原家の領有することとなり、西国大名の監視を務め、実際に幕末には第2次長州征伐で長州藩の毛利家(高杉晋作の奇兵隊)と戦うことになり、敗北。自ら小倉城に火を放ち焼失させています。そしてこの敗戦から幕藩体制解体に向けて大きく動き出すことになりました。
明治維新後、小倉城には歩兵第12旅団、第12師団の司令部が城内に置かれ、戦後は米軍に接収。接収解除後、1959(昭和34)年に外観四重(屋根四層)、内部五階建ての天守閣が再建されました。
(撮影&解説:裏辺金好)