山口県周南市は元々複数の市町村が合併して誕生した新しい市なのですが、吸収された市の中の一つ、新南陽市の最西端に(周防)若山城は存在します。若山城は1400年代後半(1470年という説有力)に造られたと言われており、山口を中心に権勢を振るった守護大名大内氏の重臣、陶氏の居城として機能していました。
1550年、時の当主であった陶隆房(後の晴賢)によって大改修されます。
その翌年に隆房による大内義隆謀殺事件(大寧寺の変)が起きたことから、これは明らかに謀反を睨んでの改修だったということが言えるでしょう。
しかし、1555年に厳島の戦いで晴賢が敗死。若山城は晴賢の子である長房が防衛に当たっていましたが、同じ大内氏の重臣であり、前に晴賢によって主君を謀殺された杉氏が城を攻撃、あっけなく落城してしまいます。(一説によると、篭城していた長房軍は大内氏残党を糾合して抵抗する予定で、軍勢が来たので城門を開けて迎えようとしたところそれが敵兵だった、ということです)
城はしばらく遺臣によって管理されますが、毛利元就が周防を平定した際に廃城となりました。
※余談
陶晴賢はいわゆる「下克上」の典型例であり、また大内氏が「大内文化」なる当時一流の文化を築き上げていたことなどもあって、彼に対する評価は「謀反人」として、地元でも極めて低いものでした。しかし近年になって、行き過ぎた文治主義を取る義隆と、いわゆる「体育会系」の隆房との関係は良くなかったこと、義隆が特定の家臣のみ重用する姿勢に異を唱えていたことなどが明らかになり、それに従い彼への評価も徐々に変わっていきました。
最大の転機は平成に入って放送された大河ドラマ「毛利元就」によって、(厳島の戦いで敗れはしたものの)晴賢の知名度が上がり、彼の研究が進んだことでしょう。平成17年には彼の「名誉復活」が行われ、単なる謀反人の一言だけで片付けられることはなく、大内氏はおろか西国でも屈指の勇将であったこと、一方で直情型の性格ゆえに義隆と合わない面があったことなどが明らかになりました。それと同時に若山城の整備も進み、翌18年には城址に顕彰碑が建てられました。
ちなみに、元々若山城址は、戦後になって地元有志の手によって整備が進められ、二の丸・三の丸まで車で入れる車道が敷かれています。また、登山道には数多くの桜が植えられ、県内でも屈指の花見場所ということで春には多くの花見客で賑わいます。(写真&解説:八十八舞太郎)