福岡城は、関ヶ原の戦いの後1601(慶長6)年より7年の歳月をかけて、黒田孝高、黒田長政親子が完成させた城。商人の町として名高い博多と那珂川を挟んだ対岸にある福崎丘陵(那珂郡警固村福崎)に築城されたもので、このときに福崎の地名を、彼らの故郷である備前国福岡(現、岡山県瀬戸内市長船町福岡)にちなんで、福岡と改名。ここに福岡城と福岡藩の歴史が始まりました。
さて福岡城本丸には、全国でも珍しい二重多聞櫓である武具櫓(現存せず)を筆頭に、櫓が数多く築城されたのが特徴。明治維新によって各地に払い下げられましたが、その後幾つかが再び福岡城へ移築されています。また天守台はありますが、ここに天守閣が造られたかどうかは絵図が無く不明。ただし文献に関しては、細川忠興が、彼の三男で次期藩主の忠利にあてた手紙の中で「黒田長政が幕府に配慮し天守を取り壊すと語った」と述べていることが近年発見されており、その存在が伺えます。
なお福岡城跡に建てられた平和台球場の閉鎖後に本格的な発掘調査を進めた結果、奈良時代の外交使節応接用の施設「鴻臚館」跡がハッキリと見つかり、国の史跡に指定されました。
(解説:裏辺金好/上写真:デューク *伝塩見櫓と大手門)