宇和島城は、941(天慶4)年の藤原純友の乱の時、宇和地方の警固使・橘遠保が板島と呼ばれていた現在の宇和島城城山に砦を構えたのが始まりと言われています。現在では周囲は埋め立てられていますが、長らくこの場所は海に面した天然の要害であり、その後も西園寺氏の砦として活用されたようです。
記録上、本格的な城としての構えが形成されたと確認できるのは、1546(天分5)年頃に家藤監物(けんもつ)によるもので、丸串板島城と称しました。さらに1575(天正3)年に西園寺宣久が拠点としますが、豊臣秀吉の四国攻めによって宇和島城は小早川隆景のものとなり、彼が拠点とした松前城の支城として城代が置かれました。
1587(天正15)年には宇和郡は戸田持隆の所領となり城代が置かれ、さらに1595(文禄4)年に、築城の名手である藤堂高虎が入封すると、高虎は地名を板串を宇和島と改め、拠点として近代的な城郭を築城しました。このときの縄張りが現在見られる宇和島城の基本的な姿です。
関が原の戦い後、加増された高虎は今治に根拠を移し、宇和島は城代が置かれますが、すぐに伊勢へ転封されます。代わって、富田信高が10万石で入封しますが、1613(慶長18)年に改易。幕府の直轄を経て、1615(元和元)年、東北の名将伊達政宗の長男・伊達秀宗が10万石で入城し、これ以後は宇和島藩伊達家として明治維新を迎えました。基本的な城の構造は前述のとおり、藤堂高虎時代のままですが、城下町は伊予南部(南予地方)の中心として拡大を続けたほか、2代目の伊達宗利は1666(寛文6)年に現在も国重要文化財として現存する天守閣を築造しています。
現在は海に面していた往時の姿は見る影も無く、さらに明治期の破却や戦災により城の多くの建物を失っていますが、城山それ自体は面影をよく残し、壮麗な石垣を随所に見ることができます。惜しむらくは、木々が生い茂りすぎていることでしょうか。
(写真&解説:裏辺金好)