室町時代、赤松氏の一族である岡豊前守が「加里屋城」として築城したのが始まりと言われますが、真偽は不明。豊臣氏の時代は生駒長政、宇喜多秀家(代官の設置)が領有し、さらに関ヶ原の戦いのあと、姫路藩・岡山藩の池田氏の一族、池田長政が配されます。しかし1645(正保2)年、池田輝興が妻子を殺害するという凶行におよび、所領を没収。 そのため、常陸の笠間より浅野長直が入城し、甲州流軍学者近藤正純の指揮で、1648(慶安元)年に今の赤穂城が完成しました。ところが3代目の浅野長矩(内匠頭)が、江戸城で吉良上野介に斬りつけ負傷させるという事態を起こして切腹の上で、改易され、いわゆる忠臣蔵の舞台となったのは有名な話。 浅野家の後は、永井直敬(なおひろ)が5年間治め、さらに1年間は龍野藩が在番したあと、1706(宝永3)年に森長直が2万石で入城し、以後は森家の領有したまま明治維新を迎えました。 1876(明治9)年に城は競売にかけられ建物の殆どを失いますが、近年に復興・復元作業が進められ、現在、大手門&隅櫓、本丸表門が復元されたほか、旧赤穂城庭園(本丸庭園および二の丸庭園)が国の名勝に指定されています。なお、天守台はありますが、天守閣はそもそも造られていません。 このほか、城内には大石内蔵助屋敷の長屋門などが今に残り、さらに大石邸には大石神社が1912(大正元)年に竣工しています。また、現在でも整備が進められており、赤穂城は往時の雰囲気を着実に取り戻しつつあります。