丸亀城〜香川県丸亀市〜
1597(慶長2)年、高松に入った豊臣秀吉配下の生駒親正が隠居のために築城を開始したのが始まり。それ以前に室町時代に管領・細川頼之重臣の奈良元安がこの場所に築城したとも言われているが、定かではありません。
さて、生駒氏は親正、一正親子が関が原の戦いでそれぞれ西軍・東軍に分かれたため、西軍方として敗れた親正は高野山へ蟄居。生駒一正が単独で讃岐17万石を領有することになり、1602(慶長7)年に丸亀城は完成しますが、1615(元和元)年の一国一城令に伴い廃城となってしまいます。さらに、生駒氏は1640(寛永17)年に家臣団が二派に分かれて抗争したため、出羽矢島1万石へ転封。
翌年、丸亀には新たに山崎家治が5万3000石で入城し、これに伴って丸亀城の再建がスタート。山崎氏は三代続きますが、世継ぎ無く改易されたため、1658(万治)元年に京極高和が6万6000石で入城し、このときに現在も残る天守閣や石垣などが完成し、京極氏が明治維新まで丸亀城主を務めました。
現在の丸亀城は、残念ながら多くの建物が明治期に取り壊されたため、壮大な石垣ばかりが目立ちますがが、現在も天守閣と大手門、藩主玄関先御門が残っています。天守閣は三層三階、約15mの木造天守で現存天守の中では日本最小ですが、山上にそびえ建ち、数少ない現存天守として非常に貴重なものです。
(撮影&解説:裏辺金好)
○場所
○風景
大手一の門・二の門 【国指定重要文化財】
1670(寛文10)年築。手前の堀に面している高麗門と城内の櫓門で構成される枡形門形式。
ここから天守閣が見え、これらの組み合わせは丸亀城の絶景の1つ。
藩主玄関先御門(御殿表門) 【県指定文化財】
御殿は1869(明治2)年に焼失しましたが、こちらは破壊も免れ現存。
御殿表門に付属する番所・長屋も現存しています。
天守閣 1660(万治3)年築。
1階北側には石落、狭間(さま)を備え、さらに唐破風や千鳥破風で意匠を凝らしています。
なお、天守入り口部分のみ板張りでないのが特徴。
天守閣2階
天守閣3階
天守閣からの眺め