高崎城〜群馬県高崎市〜
○解説
高崎城は1598(慶長3)年、中世に和田城があった場所に徳川家重臣、井伊直政が築城。もっとも、井伊直政は関ヶ原の戦い後に近江(滋賀県)の彦根へと加増転封され、高崎城は短期間のうちに酒井家次、松平(戸田)康永、松平(藤井)信吉、安藤重信と城主が交代し、この安藤氏のときに高崎城の整備が終わりました。城主はこの後も交替を続け、安藤氏3代の後、松平(大河内)輝貞、間部詮房となり、ついで松平(大河内)輝貞が再び高崎城に入ると、以後は大河内松平家が明治維新まで高崎城主となりました。
さて、高崎城は天守閣は存在せず、本丸西側に代用となる三重櫓を配置し、本丸四隅に櫓を配置。櫓があるのは、この本丸の4つのみで、他には存在しません。
また高崎城が面白いのは、三の丸が軍学的に特に配慮の無い、広々とした空間であるのに対し、本丸周辺の北側は中世の和田城を利用した、入り組んだ非常に複雑な郭の形状を持っていたこと。しかし、その本丸周辺は明治期以降に破却され、殆ど現存してていません。
なお、高崎城は土塁上にある樹木を1本ずつ調査して描いた江戸時代の図面(御城御土居通御植物尺付絵図 1817年作成)をはじめ、城内の建物を正確に描いた「高崎城断面図」、天守代用の三重櫓古写真など、とにかくデータが非常に揃っており、かつての建物を復元するには十分な資料が存在しますが、未だに復元の動きはありません。
上写真は三の丸大手門の脇に移築されている旧本丸乾櫓と旧三の丸東門です。
(撮影:裏辺金好)
○場所
○風景
旧本丸乾櫓
三の丸水掘
道路の拡幅によって、当時よりは狭くなっています。元々は幅約25m、深さ5mという広大なものでした。