結城城は平安時代末期の治承年間(1177〜1180)年に結城朝光が築城したと伝わるが、有力な証拠が無いため、南北朝時代の築城では無いかといわれている。なお、結城朝光は藤原秀郷の後裔である小山政光(小山氏初代)の4男で、結城氏は室町時代、佐竹、宇都宮、千葉、小山、小田、長沼、那須氏とともに関東八家と数えられるようになる。
結城城の名を一躍高めたのは、1440(永享12)年の結城合戦。関東公方足利持氏が将軍・足利義教と戦って敗死したことに伴い、その遺児である春王丸・安王丸兄弟を結城氏朝が保護し、兵を挙げた戦いで、足利義教は討伐を命じるも、結城城の落城まで1年がかかるという結果となったのである。
結城氏はその後、常陸の佐竹氏を頼って再興を果たし、以後は再び関東の名族として戦国時代も生き残った。そして、1591(天正19)年、結城晴朝は徳川家康の次男、秀康を養子としてもらいうけるが、関ヶ原の戦い後に福井へ転封となった。おまけに結城秀康は松平姓に戻したため、結城の姓は無くなってしまう。福井にまで付き従った結城晴朝にすれば大きな誤算で、故郷に帰りたいとの願いも果たせず、失意のうちに亡くなった。
さて、結城城は結城氏転封後、一時廃城となっていたが、1700(元禄13)年に水野勝長が1万8000石で入城することになり再興し、明治維新を迎えた。
現在の結城城は、あまり遺構が見られなくなってしまっているが、その街並みはしっかりと残っており、また公共施設に土塀風の構造物をつけるなど、城下町のイメージを積極的に構築している。
(写真・本文:裏辺金好)
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