大友宗麟ゆかりの大分にある府内城は、宗麟の息子・義統が豊臣秀吉によって改易され、慶長2年に石田三成の妹婿・福原直高が豊後臼杵より12万石で入封し、新たに築城を始めたことに始まる。そのため、大友氏時代の、いわゆる「大友氏館」とは異なるので要注意。近年の研究では、天守閣はこのときに造られたと考えられている。
その後、竹中重利(竹中半兵衛の子)が入城し天守閣を改修し、そして城内で工事中だった箇所を完成。城主は以後、竹中重義、日根野吉明と続き、松平(大給)忠昭が2万2000石で入城すると、以後は明治維新まで存続。ところが城内の建物のほうは、1743(寛保3)年に城下からの出火が延焼し、天守閣を始め多くの建物を消失。
さらに明治時代の破却などで本丸以外は敷地もなくなり、さらに戦災によって殆どの建物が失われてしまっている。それでも、僅かながら現存建築物もあり、そして城としての雰囲気を味わえる程度に建物の復興や復元がされており、櫓、土塀、石垣と堀、という典型的な城郭スタイルを楽しませてくれる。特に、平成8年に復元された廊下橋は必見。
上写真は西の丸南西隅櫓・宗門櫓など。府内城のビューポイントで、南隅櫓・宗門櫓・大手門・東の丸南隅櫓が並ぶ。それにしても、元々が12万石の城だけに、のちに2万2000石の城になっても豪華な造りのまま。
(撮影&解説:裏辺金好 *廊下橋はリン撮影)