高島城〜長野県諏訪市〜


○解説

 中世、諏訪郡は諏訪氏が領有し、現在の高島城の北にある茶臼山に高島城(茶臼山城)を本拠としていました。1590(天正18)年、諏訪頼忠が徳川家康の関東移封に伴い、武蔵国比企郡などに移ると、これに代わって豊臣秀吉の武将・日根野高吉が入封。それまでの高島城に代わって、1592(文禄元)年に諏訪湖のほとりに築城を開始し、1598(慶長3)年に完成しました。

 当時は諏訪湖と数条の河川が城の石垣に迫り、湖上に浮いているように見えたため「諏訪の浮城」とも呼ばれました。また、本丸、二の丸、三の丸をほぼ一直線に配した縄張りで、3重5階の望楼型天守ほか、主要な建物の屋根が瓦葺きではなく柿葺であるのが特徴でした。これは地盤沈下対策とも、瓦が諏訪の寒冷に耐えられなかったとも云われています。

 さて1601(慶長6)年、日根野氏の転封によって諏訪頼水(頼忠の子)が旧領に返り咲き城主となると、以後江戸時代を通じて諏訪氏の居城でありつづけました。そして、明治維新によって1875(明治8)年に天守閣が撤去され、翌年に本丸跡が高島公園となりました。1970(昭和45)年に天守閣・隅櫓等がが鉄筋コンクリートで復興されたほか、当時の石垣が一部残っています。
(写真:リン)

○場所



○風景


天守閣


冬景色 (撮影:裏辺金好)



復興隅櫓


三の丸御殿裏門
本丸の御川渡御門跡に移築されたもので、藩主の別邸である三の丸御殿の裏門(明治維新後に個人へ払い下げ)を、寄贈を受けて1988(昭和63)年に再移築したもの。


諏訪護国神社


温泉寺山門
温泉寺は高島第2代藩主の諏訪忠恒が1640(寛永17)年に創建したもの。山門は、高島城のいずれかの城門を移築されたものと伝わります。


温泉寺本堂
1827(文政10)年に高島城に建てられた能舞台を、1870(明治3)年に温泉寺の火災に伴い移築したと云われます。



高島藩主諏訪家墓所 【国史跡】
温泉寺には諏訪藩第2代藩主の諏訪忠恒から第8代藩主の諏訪忠恕までと、その奥方や子供の墓が並びます。


和泉式部の墓
この地域は和泉式部の出身地という説があります。

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