福井城〜福井県福井市〜


○解説

 福井城は、柴田勝家が築城した北ノ庄城の敷地を取り込み、徳川家康次男の結城秀康が1600年に築城させたものです。なお、当時の地名である”北ノ庄”は、1624年に福井藩第3代藩主松平忠昌が「北ノ字は不幸である」として地名を福井に改名(諸説あり)しています。

 縄張りは、徳川家康自らが行ったとも言われており、四重五階の天守と足羽川と荒川を外堀とした三の丸を持つ大きな城でした。しかし、天守閣は1689(寛文9)年に焼失し、以後は再建されていません。また、明治維新後に大半の敷地が売却され、現在は本丸と内堀が残るのみ。

 その本丸には福井県庁、福井県議会議事堂と福井県警が鎮座していますが、2008(平成20)年に御廊下橋、2018(平成30)年に山里口御門が復元され(いずれも上写真)、景観の一部が整えられました。また、福井城北側の三の丸には、2004(平成16)年の福井市立郷土歴史博物館の建設にあたって発掘調査が行われ、その成果を元に舎人門とその一帯が復元されています。

 さらに、舎人門周辺に隣接して、江戸時代に「御泉水屋敷」として藩主別邸として使われた養浩館庭園が残っており、藩政時代を偲ばせています。
(撮影:リン=山里口御門と本丸内部、裏辺金好=それ以外)

○場所



○風景


本丸と御廊下橋 (山里口御門復元前)

御廊下橋 (山里口御門復元前)

御廊下橋と山里口御門

山里口御門
福井城本丸の西側を守る枡形門で、「廊下橋御門(ろうかばしごもん)」や「天守台下門(てんしゅだいしたもん)」とも呼ばれました。本丸の西につながる西二の丸(山里丸)から本丸への入口です。



山里口御門内部


天守台
福井城築城当時、外観は四層で内部は五階、高さは天守閣だけで約28m、天守台を含めると37mという壮大な規模の天守閣が存在しました。1669(寛文9)年の大火で焼失した後、再建されませんでした。


天守台礎石

小天守台
1948(昭和23)年に起きた福井地震で一部が崩壊したままです。


舎人門
福井城の外堀に設けられた門の1つで、「清兵衛町見附御門(せいべいちょうみつけごもん)」、「江戸町口御門」「御泉水裏御門」などとも呼ばれました。福井市立郷土歴史博物館の建設に伴う発掘調査の結果や絵図などをもとに、幕末頃の姿を想定して復元されています。


養浩館庭園
成立の経緯は不明ですが、1656(明暦2)年、第4代藩主松平光通の側室が子息をここで産んだことが最古の記録です。数寄屋造りの屋敷をそなえる回遊式林泉庭園で、福井城の本丸から北東約400mの位置にあり、外堀の土居に接しています。江戸時代には福井藩主松平家の別邸「御泉水屋敷(おせんすいやしき)」と称されていました。

養浩館庭園
現在の姿に整えられたのは、元禄年間(1688〜1704年)の頃。現在の名前である「養浩館」は、1884(明治17)年に元・福井藩主の松平春嶽が名づけたもので、松平家の迎賓館としても使用。「御茶屋」と呼ばれた屋敷は第二次世界大戦中の福井空襲で焼失しましたが、後に復元されています。


養浩館庭園

養浩館庭園

養浩館庭園「御茶屋」御月見ノ間


養浩館庭園「御茶屋」御月見ノ間
螺鈿作りの装飾的な脇棚が特徴です。

養浩館庭園「御茶屋」御月見ノ間


養浩館庭園「御茶屋」鎖ノ間
透彫欄間付杉戸には鶏が描かれています。


養浩館庭園「御茶屋」御湯殿
蒸風呂です。

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